織田信長

織田信長
秀吉清正記念館 織田信長像(撮影 2012.2.12)

 織田信長は武力による天下統一を目指し、室町幕府を滅ぼした。反対勢力や宗教勢力を容赦なく叩き、古い権威を一掃した。しかし、家臣の明智光秀に京都本能寺で討たれ、自害した。

清洲公園 織田信長公像
清洲公園 織田信長公像(撮影 2012.2.12)

那古野城
名古屋城 那古野城跡石碑(撮影 2018.9.15)

 16世紀前半、今川本家の氏親は尾張進出の拠点として、現在の名古屋城の二の丸の辺りに柳ノ丸を築城した。柳ノ丸には氏親の末子氏豊が入ったが、天文7年(1538)ころに尾張守護代の一族であった織田信秀がこれを奪い、那古野城と改称した。信秀の子として天文3年(1534)に生まれた信長は、信秀から那古野城を譲られた。

清洲城(復元)
清洲城(復元)(撮影 2012.2.12)

 弘治元年(1555)、居城を清洲城に移す。尾張のほぼ中央に位置し、鎌倉街道(のちの美濃路)などの街道が合流する清洲は古くから交通の要衝で、室町時代後期になると、清洲城は尾張守護の拠点として権威をもっていた。この年、清洲城主の織田信友の切腹に追い込んだ信長は那古野城から移り、新しい清洲城主となった。信長が在城していた当時の城は、石垣もない中世の居館程度であったと考えられている。

熱田神宮 信長塀
熱田神宮 信長塀(撮影 2012.5.26)

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、大軍を率いる今川義元が駿河から来襲。桶狭間で激突し、義元を討ち取る。
 熱田大明神の神威に感謝した信長は、熱田神宮に築地塀を寄進している。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つである。

犬山城 天守
犬山城 天守(撮影 2004.1.4)

 永禄7年(1564)、尾張国内で信長に最後まで抵抗した城が、織田信清の居城だったのが犬山城である。信秀・信長の二代にわたる尾張制覇は、信秀が那古野城を奪ってから、32年目ようやく成就した。

墨俣一夜城
墨俣一夜城 模擬天守閣(撮影 2012.2.12)

 信長が美濃攻略に全勢力を傾けていたころ、永禄9年(1566)9月、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は濃尾の地理に詳しい蜂巣賀小六らの協力を得て、墨俣築城に着手した。その方法は、木材など必要な資材や道具をあらかじめ河川の上流に準備しておき、木曽川・境川の水運を利用して墨俣に運びいれ、一気に築城するという斬新なものであった。9月12日、藤吉郎以下2000の兵が築城にとりかかり、13日の夕刻早くも馬柵と櫓がほぼ完成した。

金華山 岐阜城
金華山 岐阜城(撮影 2012.2.11)

 桶狭間の戦いで勝利した信長は、その余勢を駆って、またたく間に美濃を席巻した感がある。永禄10年(1567)8月1日、美濃情勢は劇的に変化する。直接のきっかけは、斎藤道三以来、斎藤家を支えつづけた稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就という西美濃三人衆が、信長への内通を伝えてきた。信長は、ただちに斎藤龍興の居城である岐阜城(稲葉山城)攻撃を発動した。織田勢は、国境の川を渡河して、一気に美濃に侵攻。岐阜城と峰続きの瑞龍寺山に取りつくと同時に、城下の井ノ口に開くかけた。さらに稲葉山の四方に鹿垣をめぐらせ、城を完全に包囲した。

岐阜城 織田信長公座像
岐阜城 織田信長公座像(撮影 2002.3.17)

 信長は、いつ天下を志したのか。定かではないが、手がかりはある。「天下布武」の朱印を用いはじめたのが、岐阜に居城を移した直後であることから、美濃(岐阜県南部)奪取の道が、そのまま天下奪取に直結していた可能性が高い。

岐阜公園 若き日の信長像
岐阜公園 若き日の信長像(撮影 2002.3.17)

 岐阜公園は、「信長公の鼓動が聞こえる公園」として再整備され、園内は信長の庭、信長居館跡、日中友好庭園、三重塔などがある。

崇福寺 織田信長父子の墓碑
崇福寺 織田信長父子の墓碑(撮影 2012.2.12)

 天正10年(1582)本能寺の変で、信長とその子信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室だったお鍋の方が、崇福寺に位牌所の設置を求めた書状が伝えた。本堂裏には信長父子の墓碑と位牌堂が建っている。

崇福寺 織田信長公父子廟(位牌堂)
崇福寺 織田信長公父子廟(位牌堂)(撮影 2012.2.12)

織田信長公像
岐阜駅前 織田信長公像(撮影 2011.9.21)

 岐阜市制施行120周年を記念して、平成21年(2009)に完成した。マントを羽織り、火縄銃と西洋兜を手にして正面を見すえた像は、時代の変革者としての側面を強調している。

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