北条時宗

円覚寺 北条時宗の廟所
円覚寺 北条時宗の廟所(撮影 2012.7.21)

 八代執権北条時宗は、五代執権北条時頼の子、正寿。幼くして時期執権と目され、14歳で七代執権北条政村の補佐を務める「連署」に就任。文永5年(1268)18歳で八代執権となる。

2014.11.23 鎌倉 円覚寺の紅葉youtube

元冦資料館 元寇戦闘絵図
元冦資料館 元寇戦闘絵図(撮影 2001.12.8)

 文永11年(1274)10月、3~4万と見られる元・高麗連合軍に対馬が襲われ、続いて壱岐が制圧された。伝令が京都と鎌倉へ飛び、九州の御家人が太宰府に集結した。博多に上陸した元軍が、火器「てっぽう」を用いたため、日本軍は苦戦を強いられたが、徐々に集団戦に慣れたこと、日本軍の団結が固かったこと、また元軍の矢が尽きたこともあり、元軍は陸から撤退した。『高麗史』などには、その夜中の暴風雨で艦船が難破したと記載されている。(文永の役)
 弘安4年(1281)5月、元・高麗連合軍は、征服した南宋の兵も加えた14万の大船団を仕立て襲来(弘安の役)。対馬・壱岐を制した後、最大で高さ3mに及ぶ防塁に阻まれた。元軍の戦法を熟知した日本軍は優勢に戦いを進め、連合軍を海上へ撤退させた。そして文永の役と同様、海上は折しも大荒れとなり、船団は壊滅した。2度の元寇(蒙古襲来)をはね返すことができたことで、御家人たちが国力を自覚し、幕府の支配は名実に西国まで確立されたといえる。

円覚寺 開基廟
円覚寺 開基廟(撮影 2012.7.21)

 開基八代執権北条時宗のみたまや、堂内には時宗・貞時高時の尊像が安置されている。現在の開基廟は江戸時代文化8年(1811)に改築されたものである。
 貞時は、時宗の子、九代執執権。弘安8年(1285)平頼綱の遺言により安達泰盛を討つ。以降、北条氏による得宗専制政治を強化し、「永仁の徳政令」を発令する。
 高時は、貞時の子。十四代執権。元弘の変の際に後醍醐天皇を隠岐へ流すが、脱出されてしまう。後醍醐天皇の挙兵に応じた新田義貞が鎌倉に侵攻すると東勝寺へ退き、一族家臣と共に自害した。

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