勝海舟

勝海舟生誕地
両国公園 勝海舟生誕地(撮影 2016.12.24)

 勝海舟は文政6年(1823)、本所亀沢とよばれていたここの父勝小吉の実家である男谷邸内で生まれた。幼少期より剣術を修め、蘭学・兵学を学んだ。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像
赤坂 勝海舟・坂本龍馬の師弟像(撮影 2018.10.10)

 弘化3年(1846)24歳の春、新婚で本所から赤坂に引越して来て、長崎や兵庫へ長期の出張をしたり静岡へ一時移住したことはあったが、その人生の大半を赤坂で過ごした。最初赤坂へ来たのは福吉町の黒田邸内にいた永井青涯に蘭学を学ぶためだったといわれる。

勝海舟の銅像
墨田区役所の脇 勝海舟の銅像(撮影 2013.3.23)

 嘉永6年(1853)年、ペリーが開国を要求してくると、老中阿部正弘は、意見を諸大名から町人に至るまで広く求めた。このとき海舟の書いた海防に関しての意見書が正弘の目にとまり、海舟は、幕府海防掛の大久保忠寛を通じ、幕政参加への足がかりを得た。
 海舟は、幕府の海軍士官学校「長崎海軍伝習所」に入門し、万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准のため、遺米使節を米国へ派遣することになり、その護衛艦「咸臨丸」で艦長として渡米した。

江戸開城談判
両国公園 江戸開城談判(撮影 2016.12.24)

 明治元年(1868)、王政復古のクーデター後、新政府軍の東征が始まるや、海舟は徳川家の陸軍総裁として、新政府軍との交渉全権を委任された。江戸無血開城を目指す海舟は周到な根回しを始める。交渉決裂の際は、江戸民衆を避難させた上で新政府軍を江戸に誘い込んで江戸中に火を放つ手はずを整えた。

三田 西郷南洲・勝海舟会見之地碑
三田 西郷南洲・勝海舟会見之地碑(撮影 2016.12.18)

 江戸城総攻撃を3月15日に控えた前日と前々日、西郷隆盛と海舟との歴史的交渉が行われた。西郷は強硬派だったが、海舟の決死の談判に、江戸城総攻撃の中止を決定した。

洗足池公園 勝海舟夫妻の墓
洗足池公園 勝海舟夫妻の墓(撮影 2012.5.4)

 明治維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任は、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。

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