山内豊信(容堂)

山内豊信(容堂)像
山内神社 山内豊信(容堂)像(撮影 2016.1.1)

 土佐藩十五代藩主山内容堂、名は豊信、幕末に中央政界で活躍し、薩摩藩国父の尊称をもつ島津久光・越前藩主松平慶永(春嶽)・宇和島藩主伊達宗城とともに幕末四賢公と称された。「容堂」の号は水戸の儒者藤田東湖によるものといわれる。
 文政10(1827)年、容堂は南邸山内氏である山内豊著の側室の子として生まれたが、本家の十四代藩主豊惇が嗣子のないまま急逝したため、急遽本家をつぎ、嘉永元年(1848)十五代藩主となった。藩政においては、学者として有能な吉田東洋を抜擢して藩政改革を行い国力の強化をはかるとともに幕政にも参加、持論である公武合体論を推し進めた。しかし、容堂不在の国元では、尊王論を掲げた武市瑞山らによる土佐勤王党の結成、彼らによる吉田東洋暗殺事件などがおこり、藩論は尊王論へと傾きつつあった。そこで容堂は、土佐帰国と同時に勤王党を弾圧、瑞山を切腹させ、さらに東洋門下でもあった後藤象二郎らを登用して開成館を開設し、殖産興業・富国強兵策を展開させた。

山内豊信(容堂)の墓
大井公園 山内豊信(容堂)の墓(撮影 2017.12.9)

 進歩的で強力な行動は幕府に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。

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