徳川家康

徳川家康公銅像
岡崎城 徳川家康公銅像(撮影 2016.9.11)

 徳川家康は、天文11年(1542)12月26日、岡崎公園二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転機を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以降持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤を作り、元和2年(1616)4月17日75才で4この世を去った。
 この像は昭和40年(1965)家康公350年祭を記念して建てたものである。

岡崎城
岡崎城 天守(撮影 2016.9.11)

 元利3年(1617)に本多康紀によって建てられたもので、3層3階地下1階の複合天守閣であったというが、明治6~74年(1873~1874)に取りこわされた。現在のものは、昭和34年(1959)に復元されたもので、歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台である。

浜松城 徳川家康公像
浜松城 徳川家康公像(撮影 2011.6.18)

 家康は、室町時代に築かれた引間城をさらに南西の丘陵地まで拡張し、遠江支配拠点の浜松城とした。家康は、元亀元年(1570)から17年間にわたる青壮年期をすごし、岡崎城から浜松城へ本拠を移したときに、引間という地名を「浜松」に改めたという。
 浜松在城中に姉川、長篠、小牧・長久手の戦いが行われ、とくに信濃から遠江に侵攻した武田信玄と対決した三方原の戦いでは苦戦を強いられたり、織田信長から武田氏と内通しているとの嫌疑をかけられた正室築山殿(築山御前ともいう)や長男徳川信康を失うなどの試練に耐え、やがて三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5カ国を領する有力大名へと雄飛をとげた時期でもある。

浜松城
浜松城 天守(撮影 2011.6.18)

 浜松城は、徳川家康の関東移封(1590年)後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴・忠氏父子によって大規模な改修が行われ、その後の大名によっても幾度か修築されている。天正年間(1573~92)にはほぼ完成したと推定される浜松城は、天守台から東に向かい、本丸・二の丸・三の丸としだいに低くなる梯郭式とよばれるものであった。また、天守が本丸ではなく天守曲輪と呼ばれる小さな曲輪に築かれたことが特徴である。

駿府城
駿府城 巽櫓(撮影 2011.6.18)

 家康は、天正13年(1585)松平家忠に駿府城の築城を命じ、翌年浜松城から移り、天正17年(1589)に完成させた。しかし、翌年、豊臣秀吉に関東移封を命ぜられ、駿府城は、秀吉配下の中村一氏が、駿河1国14万5000石をあたえられて城主となった。

皇居東御苑 江戸城跡(天守台)
皇居東御苑 天守台(撮影 2011.2.13)

 江戸城は、太田道灌が中世に築いた城を、江戸開府後、家康が諸大名の力を結集した「天下普請」によって大規模に拡大し、三代将軍徳川家光のときに完成した。天守、櫓、門をはじめ、無数の御殿や蔵が立ち並ぶ日本屈指の城だったが、明暦3年(1657)の「明暦の大火」で焼け落ち、以降、再建されなかった。
 家康が江戸に入ったのは天正18年(1590)、生涯を閉じるまでの26年間のうち、4年半ぐらい江戸に滞在した。

駿府城 徳川家康公像
駿府城 徳川家康公像(撮影 2011.6.18)

 慶長8年(1603)2月、征夷大将軍となり江戸幕府の創立となった。その後、慶長12年(1607)7月、駿府城に隠居し、ここに江戸(秀忠)と駿府(家康)の二元政治が行われた。主導権はいぜんとして駿府城にあり、家康は、大名統制を強化するとともに、政権の基盤となる諸制度を整備していった。

日光東照宮 奥社宝塔
日光東照宮 奥社宝塔(撮影 2007.6.17)

 家康は、元和2年(1616)4月に死去すると神として祀られ、後水尾天皇から東照大権現の神号を与えられた。初め久能山(静岡県)に葬られたが、遺言により1年後、日光山に遷された。
 東照宮の最奥部には、東照宮の祭神である家康の宝塔がある。宝塔は高さ5m余、八角九段の石段の上に立てられ、朝鮮国から贈られた鶴のローソク立てなとが置かれている。その前には葵の紋がついた鋳抜門がある。

大樹寺 徳川家康公墓所
大樹寺 徳川家康公墓所(撮影 2016.9.11)

 昭和44年(1969)には、父広忠の墓に隣接して家康の墓もたてられた。墓碑の法名は徳川当主恒孝氏に依頼したものである。
 徳川宗家の御承認を始め、日光東照宮、久能山東照宮にも御連絡の上、三河人永年の愛惜しむをこめてここに全国ただ一基と思われる佛式による墓碑の法名である。

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