加藤清正

中村公園 秀吉清正記念館
中村公園 秀吉清正記念館(撮影 2012.2.12)
 加藤清正は、現在の名古屋近在の農村に生まれた。幼名夜叉若。尾張中村(名古屋市中村区)で刀鍛冶をしていた父は清正3歳のときに病没。残された母子は苦労を重ねたのち、母の故郷津島(愛知県津島市)に移ったが、募らし向きは苦しいままであった。
 織田信長の死後、豊臣秀吉は天下人の道を突き進んだ。四国を平らげた秀吉が次に目を向けたのが九州だった。そのころ、秀吉の旗本として次々武功をあげ、頭角を現わしたのが清正である。
熊本城 大・小天守
熊本城 大・小天守(撮影 2001.12.4)
 天正14年(1586)、佐々成政が居城としていた隅本城に入った。今の熊本城の南西、古城町あたりを城郭とする。現在の城とは比較にならないほど小さなものだった。清正はすぐに居城を移したかったにちがいない。だが、周囲の事情がそれを許さなかった。肥後半国の内治に追われるいっぽうで、天正16年(1591)秀吉の朝鮮出兵計画が具体化する。清正も肥前名護屋城(佐賀県唐津市)築城に駆り出され、自分の領国統治どころではなくなったのだ。
 慶長5年(1600)、日本中の大名を二分した関ヶ原の戦いで、清正は東軍に属した、勝利の暁に肥後・築後の恩賞が約束されたともいう。関ヶ原の戦いが東軍勝利に終わると、ようやく清正は、隅本城に近接する茶臼山への築城を本格的に開始する。熊本城がほぼ完成したのは、慶長12年(1607)であった。熊本藩初代藩主加藤清正となる。
名古屋城 加藤清正公石曳きの像
名古屋城 加藤清正公石曳きの像(撮影 2014.3.31)
 慶長15年(1610)清正が徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施工した。清正は巨石を修羅乗せて運ぶとき、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、「清正の石曳き」といわれている。
名古屋城 清正石
名古屋城 清正石(撮影 2014.3.31)
 本丸東御門の石垣にはめこまれている「清正石」は、横幅6m、高さは2.5mもある。
池上本門寺 此経難持坂
池上本門寺 此経難持坂(撮影 2011.3.4)
 此経難持坂は、清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品の詩句96文字にちなんで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。池上本門寺墓地には加藤清正の供養塔がある。
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