ゆかりの地
東インド艦隊司令官のペリー提督は、日本を開国させるという使命を帯び、断固たる決意のもと日本にやって来た。ペリーの日本遠征は、第一の目的は日本に開国させることではあったが、ほかにも狙いがあった。琉球の占領と小笠原の補給基地化である。これは、幕府に開国を拒否された場合のことを考えての作戦だった。
嘉永6年(1853)6月3日に、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督の率いる4隻の黒船が浦賀沖にあらわれた。武力を背景にしたペリーの強硬な態度に、江戸幕府はついに6月9日久里浜で上陸を許し、大統領フィルモアからの国書をうけとり、回答は翌年することを約束してペリー一行は引き揚げた。
嘉永7年(1854)1月、ペリー提督は再び来航し、開国に関する会談が久良岐郡横浜村字駒形(現、横浜開港資料館)に設置された応接所で行われ、3月に日米和親条約12カ条が調印された。
嘉永7年(1854)3月、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地である。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。ペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
ペリー艦隊が下田に上陸し、300人の部下を引き連れ了仙寺まで行進した、石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの道である。