東海道(宿・一里塚跡)

日本橋
江戸東京博物館 日本橋(撮影 2016.12.24)

 日本橋がはじめて架けられたのは、慶長8年(1603)といわれ、翌年には、諸街道の起点と定められ。日本橋一帯には、魚河岸、米河岸、材木河岸などがつくられ、また、幕府の陸上輸送を担当する伝馬役所が橋の近くに設けられた。

品川宿 聖蹟公園(本陣跡)
品川宿 聖蹟公園(本陣跡)(撮影 2012.3.3)

 東海道一番目の宿場品川宿は、日本橋から2里、目黒川の河口に位置していた。品川宿は目黒川を境として北本宿と南本宿の2宿からなっていたが、江戸寄りに新町ができ、享保7年(1722)に年間1万2000人の歩行人足を出すことを条件として新しい営業が認められた。こうして品川宿は、北から歩行新宿・北本宿・南本宿の3宿からなることとなった。
 江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休憩や宿泊するところで、品川宿には初め南北本宿に一軒ずつあったが、江戸中期には北本宿のみとなった。大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらした。現在、本陣跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となたことに因み、聖蹟公園と命名されている。

川崎宿 旧東海道の石柱
川崎宿 旧東海道の石柱(撮影 2007.11.18)

 川崎宿に入るには、六郷川(多摩川)の下流部)を渡らなければならない。今でこそ多摩川には幾つもの橋が架かり往来は容易になっているが、当時はこの川を渡るのも一苦労だった。橋を架けても、川が氾濫してすぐに流されてしまう始末。元禄元年(1688)に最後の橋が流されてからは、軍事的な理由もあって新たな橋を架けることはせず、渡し舟を使って人々は六郷川を渡るようになった。

市場一里塚
市場一里塚(撮影 2007.11.18)

 市場一里塚は、市場は江戸(日本橋)より5里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚である。明治10年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存している。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していた。

慶運寺(うらしま寺)
神奈川宿 慶運寺(うらしま寺)(撮影 1999.10.10)

 相模国三浦(現在の神奈川県)に浦島太夫という男がいた。その息子太郎は、父が丹後国(現在の京都府北部)に出仕中に、亀を助け竜宮城へ行った。帰ってきた太郎は、両親はすでに死亡し、墓が武蔵国白幡(現在の横浜市神奈川区)にあると聞かされる。太郎は両親の墓を探し出し、その地に庵を結んで観世音菩薩像を安置した。そこがのちに観福寿寺となった。観福寿寺は廃寺となり、観世音菩薩像は今は慶運寺に安置されている。

保土ヶ谷宿 旅篭屋跡
保土ヶ谷宿 旅篭屋跡(撮影 2017.6.10)

 保土ヶ谷宿は保土ヶ谷・岩間・神戸・帷子の4つの町からなる宿場町で、江戸日本橋から約32kmのところにある。本陣は代々苅部家がつとめ、問屋・名主もかねていた。苅部家は家伝によると後北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫という。本陣の大名宿泊代は決まった額はなく心づけであった。
 旅篭屋は、天保年間の本金子屋(伝左衛門)である。

藤沢宿 遊行橋(旧大鋸橋)
藤沢宿 遊行橋(旧大鋸橋)(撮影 2017.8.28)

 東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行橋(旧大鋸橋)で境川を越えて鎌倉郡から高座郡に入る。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていた。

四谷辻 四谷不動
四谷辻 四谷不動(撮影 2001.10.27)

 四谷不動(大山道標)は、東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側に「これより大山みち」とある。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもの。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。

戸塚宿 見付跡
戸塚宿 見付跡(撮影 1999.9.27)

 戸塚宿(現在の横浜市戸塚区)は日本橋から5番目の宿場で、伝馬制が敷かれた慶長6年(1601)の3年後に伝馬宿に定められた。江戸寄りに権太坂、京寄りには大坂(都市の大坂ではない)という難所があったうえに、保土ヶ谷区~藤沢間の距離が長く、物資の運搬などに多くの支障が出るため、土地の有力者・澤辺宗三が代表となって幕府に訴願し、新たに宿場として設置が認められたのだった。

茅ヶ崎 一里塚跡
茅ヶ崎 一里塚跡(撮影 2000.7.9)

 茅ヶ崎 一里塚は、慶長9年(1604)徳川家康が二代将軍徳川秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に整備させたもので、日本橋を起点に沿道一里毎に設けられた。大きさは9メートル四方、高さ3メートルで、街道の両側に相対して築かれ、塚上には多く榎を植え旅人の利便をはからった。

大磯宿 東海道松並木
大磯宿 東海道松並木(撮影 2009.1.17)

 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものである。

国府本郷 一里塚
国府本郷 一里塚(撮影 2009.1.17)

 国府本郷に入ると、東海道の記憶を伝える「 国府本郷の一里塚」が標識がある。この一里塚は、日本橋から17番目と数えられる。(実際はここより約200m江戸寄りに位置して、東海道をはさんで左右一対が存在していたといわれている)

押切坂付近 一里塚の跡
押切坂付近 一里塚の跡(撮影 2001.2.3)

畑宿 旧街道一里塚
畑宿 旧街道一里塚(撮影 2002.11.16)

 江戸日本橋を出発した旅人が距離の目安にした一里塚。現在、本物の一里塚はあまり残っていないが、これは当時の姿を伝える貴重なものだ。江戸からは23里(約92Km)の位置にある。

箱根旧街道
箱根旧街道(撮影 2002.11.16)

 箱根旧街道は、江戸時代の五街道の一つ。参勤交代の大名や人馬の往来が盛んであったといわれる。現在も石畳、杉並木、関所跡が残り多くの人に親しまれる。江戸時代の始めそれまで利用していた湯坂道のかわりとして利用されてるようになったもので有名な「箱根八里」は、この道である。この道に敷かれている石畳は延宝8年(1680)に江戸幕府が布設したものですが、其の後、文久元年(1863)孝明天皇の妹和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降娘される際に全面的に改修されたと云われている。

箱根旧街道 杉並木
箱根旧街道 杉並木(撮影 2001.5.12)

 杉並木の箱根旧街道は多くの観光客の散歩ルートになっている。

箱根関所跡
箱根関所跡(撮影 2001.5.12)

 箱根の関所といえば、特に厳しい取り締まりが行われた関所として有名だ。その厳格さを物語るエピソードがある。「水戸黄門」の通称でおなじみの水戸藩二代藩主徳川光圀の一行が、関所を通過した際のこと。一行は関所の番士がいったん止まるように頼んだにもかかわらず、そのままずんずんと通り過ぎてしまった。だがそこは箱根関所の番士。相手が「天下の副将軍」であろうと職務を果たさねばならない、という気持ちで一行を追いかけた。番士は無礼をとがめられて斬られるのを覚悟していたが、意外にも逆に光圀から職務に忠実であることをほめられ、金一封を賜ったという。

駿府城 弥次喜多像
駿府城 弥次喜多像(撮影 2011.6.18)

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」物語は、江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛(左の像)と、元役者で江尻(現清水市)出身の喜多八(右の像)という無邪気でひょうきんな主人公ふたりが、江戸を出発して東海道を西へ向かい、伊勢を経て京都・大坂へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言えば楽しい旅の代名詞となっている。十返舎一九は駿河国出身。下級武士の家に生まれたという。江戸の版元蔦谷重三郎のもとで年20作ほど量産し挿絵も描いた。発売当初から大評判で続編も書かれた。

週末ウォーキング