豊臣秀頼・淀殿

大阪城 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
大阪城 豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地(撮影 2010.1.8)

 淀殿といえば、高慢で妥協を知らない性格により豊臣氏滅亡の原因をつくった女性として、後世の評価は芳しくない。後年、最後まで徳川家康に対抗した姿勢をみても、勝気な性格だったのは事実であろう。多感な年ごろに2度の落城に遭遇した経験から、人の風下に立ってはならないという意識を植えつけられたのかもしれない。
 北庄落城の6年後、豊臣秀吉の長男鶴松を生んでいる。その鶴松は、わずか3歳で夭折する。だが、淀殿の執念が実を結び、2年後、ふたたび男子が生まれたのである。「捨て子は育つ」との俗信から拾と名づけられた。のちの秀頼である。
 大坂夏の陣、徳川家は豊臣家の息の根を止めるために、大坂に向け進軍を開始した。対する豊臣方は、すでに大坂城を丸裸にされてしまっているのでもはや篭城策はとれない。残されてた道は、正々堂々と勝負に打って出るしかなかった。しかし、兵力差は歴然で、徳川方3万5000に対して豊臣方は約半分。しかも大坂方の兵たちの大半は寄せ集めの浪人で戦意は低い。まともに戦えば徳川方の勝利は確実であった。真田幸村の決死の突撃などで、一時は徳川本隊が追い詰められる場面もあったが、その真田幸村も討ち取ると、総崩れとなった豊臣軍を大坂城へと敗走せしめた。慶長20年(1615)5月8日、総大将・秀頼は母・淀殿とともに自刃し、ここに豊臣家は滅んだ。

2010.1.8 大阪城(観光スポットガイド)youtube

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