徳川家光

家光廟大猷院 二天門
家光廟大猷院 二天門(撮影 2007.6.17)

 徳川家康を崇敬していた三代将軍徳川家光は、東照宮の近くに葬るように遺言した。
 家光は、参勤交代の制度化、キリシタン弾圧の強化、「鎖国」体制確立などにより、幕府の体制を盤石なものとした立役者。二代将軍徳川秀忠の次男であった家光は生まれつき小心で無口。母・お江(於江与)は利発な三男の国松(忠長)を溺愛し世継にと考えていたが、家光に忠実だった乳母・春日局が家康に家光世嗣を直訴。それにが家光応じて家光の将軍継嗣が決定した。

家光廟大猷院 本殿
家光廟大猷院 本殿(撮影 2007.6.17)

 東照宮を凌駕してはならないという配慮から、家光廟大猷院の建物の装飾は控えめで、重厚で落ち着いた雰囲気が漂う。仁王門二天門夜叉門をくぐると、唐門拝殿本殿と家光の墓所の奥の院がある。

2007.6.17 新緑の日光(輪王寺・東照宮・二荒山神社)youtube

神宮外苑 御鷹の松
神宮外苑 御鷹の松(撮影 2007.6.17)

 将軍就任時には諸大名を前に「余は生まれながらの将軍である」と宣い、皆を威圧した。無類の鷹狩り好きで馬術にも通じ、たびたび供の者を置き去りにして疾走。若い頃にはお忍びで江戸市中に出るみとが好きで、年寄たちを困らせたという。
 御鷹の松は昔、家光が鷹狩の途中この寺に休憩していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大変喜び、この松をその鷹の名とって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定200年)は昭和39年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。

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