源頼朝

源氏山公園 源頼朝公像
源氏山公園 源頼朝公像(撮影 1999.11.27)
 鎌倉幕府を開いた初代将軍源頼朝は、久安3年(1147)に源義朝の3男として京都で生まれ、平治元年(1159)、平治の乱が起きると、父義朝と兄義平らが戦いに負けて非業の最期をとげ、自身は14歳で伊豆蛭ケ小島(静岡県伊豆の国市)へと配流された。平家の棟梁である平清盛は、頼朝を死罪にして源氏の嫡流を根絶やしにしようとした。だが、清盛の続母である池禅尼が、幼くして亡くした子どもに頼朝が似ていたことから命乞いをし、頼朝は救われたとされる。
源氏山公園
源氏山公園(撮影 2016.4.2)
 源氏山公園(公園50選)は、標高93mの源氏山は別名白旗山とか旗立山とか呼ばれるが、その名の由来は、この山裾に源氏の屋敷があったことからとか、あるいは源頼義の奥州征伐の時、源氏の白旗を山上に立てて戦勝を祈願したとの伝説による。春には桜の名所(花の名所100選)で、多くの花見客で賑わう。
伊豆山神社 本殿
伊豆山神社 本殿(撮影 2013.2.23)
 伊豆山神社の由来は、古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯山とも呼ばれていたが、明治の神仏分離令により現在の社名に改称された。頼朝と北条政子の縁を結んだ場所としても知られている。
土肥椙山 しとどの窟(窟
土肥椙山 しとどの窟(撮影 2000.9.15)
 治承4年(1180)年8月、石橋山の戦いで平家の軍勢総大将大庭影親3千余騎と戦ったが、10対1の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引き返し、堀口の合戦にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ土肥実平のお陰で、人の知らない谷底しとどの窟や大木の洞にかくれ一命を救ってもらった。
 治承4年(1180)年10月の富士川の戦いに勝利した頼朝は、東国の平定につとめ、鎌倉を本拠とする関東の地方政権を確立していた。
洗足池公園 千束八幡神社
洗足池公園 千束八幡神社(撮影 2012.5.4)
 千束八幡神社の別名を「旗上げ八幡」と称する。寿永3年(1184)春、頼朝木曽義仲を京都に攻め込む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとする。この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞あて賜りたる名馬二馬の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。
鶴岡八幡宮 本宮と舞殿
鶴岡八幡宮 本宮と舞殿(撮影 2007.7.25)
 頼朝は、朝廷から平家征伐の宣言を受けることに成功。自身で戦地に赴くことなく、弟の範頼、義経に平家との戦いの指揮を一任。源氏軍は、一ノ谷の戦いに勝利し、源氏同士の内紛で勢いを盛り返しつつあった平家軍を四国へ敗走させた。
 頼朝は、平家滅亡によって父義朝の仇を討ち、悲願を達成したともいえるのだが、壇ノ浦の戦いの勝利は、新たな骨肉の争いの幕開けでもあった。文治元年(1185)5月、義経は鎌倉に凱旋しようとしたところ、頼朝の命令によって鎌倉入りを拒絶された。以来、兄弟の仲は修復不能となり、義経は最終的には藤原秀衝を頼って奥州平泉へ逃亡。秀衝は、義経を受け入れたものの、秀衝の死後、後継者となった泰衝は、態度を豹変。頼朝の策謀に乗せられ、文治5年(1189)、義経の居住いる高館を襲撃して自害へと追いつめた。
 建久3年(1192)、朝廷から征夷大将軍に任じられ、武家政権の基礎を確立する道のりは、頼朝34歳のとき、「源氏の旗揚げ」から始まった。
鶴岡八幡宮 白旗神社
鶴岡八幡宮 白旗神社(撮影 2012.7.21)
 頼朝、三代将軍源実朝がお祀りされており、黒塗りの御社殿が印象的である。祭神の御神徳にあやかり必勝や学業成就の信仰のあつい神社である。
白旗神社 源頼朝の墓
白旗神社 源頼朝の墓(撮影 2007.7.22)
 頼朝の死後、遺骸が葬られたはずの墓は、大蔵幕府跡地の背後の山腹にある。
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