滝廉太郎

上野公園 滝廉太郎像
旧東京音楽学校奏楽堂 滝廉太郎像(撮影 2011.4.17)

 滝廉太郎は、明治時代にドイツに留学して作曲やピアノを学び、音楽の分野で、日本の近代化に大きな役割をはたした。滝家は日出藩(現、日出町)の家老をつとめた名家で、祖父平之進は帆足万里の門弟、父吉弘は大久保利通の秘書であった。

岡城跡 滝廉太郎像
岡城跡 滝廉太郎像(撮影 2000.12.7)

 明治12(1879)に長男として東京で生まれたが、大久保の暗殺後は父の地方転勤が続き、横浜・富山・大分・竹田の地を転々とした。廉太郎と音楽の出会いは、家内にあったバイオリンやハーモニカであった。横浜在住時に父が購入したこれらの西洋楽器によって、転校続きの寂しさを癒し、音楽に興味をもつようになる。
 音楽の世界へ進むことを決意するようになったのは、直入郡高等小学校4年のときに、オルガンの指導を受けた後藤由男や、音楽学枚への入学に反対する両親を説得し、支援した従兄大吉の存在が大きい。
 明治時代に入り、多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を無理にはめ込んだぎごちない歌が多かった。廉太郎はもっとも早く、洋楽の要素を摂取しながら、日本の心を作曲した音楽家であった。文部省(現、文部科学省)の「中学唱歌」に採用された「荒城の月」や、「花」「お正月」など、生涯に34の作品を残した。明治34年(1901)、念願のドイツ留学が実現するが、肺結核のため1年余りで帰国。その翌年、療養先の大分(現、大分市)において、23歳の若さで死去した。

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