護国寺

仁王門
仁王門(撮影 2011.5.9)
 仁王門の建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
不老門
不老門(撮影 2011.5.9)
 不老門は 仁王門を潜り石畳まっすぐ通り観音堂(現 本堂)につづく石段の中腹にある中門に位置する。三尾邦三氏の寄進により、昭和13年(1938)4月、亀山茶碗の記念として建立される。鶴は千年亀は万年と、いわれようにこの門を潜ると病気にならず、長寿でいてほしいという願いが込められた門である。
本堂
本堂(撮影 2011.5.9)
 神齢山悉地院護国寺(国重要文化財) は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願で、彼女の帰依する僧亮賢を開山とし、綱吉の将軍就任翌年の天和元年(1681)、雑司ヶ谷薬園の地に建立した。
 このあたりの地名「音羽」には京都育ちの柱昌院が音羽山清水寺と門前町清水坂のにぎわいを懐かしみ、町名を音羽としたという説がある。
月光殿
月光殿(撮影 2011.5.9)
 月光殿は単層・入母屋造、正面軒破風付、桟瓦葺の桃山時代(17世紀初期)の書院造である。もと滋賀県大津市の園城寺(三井寺)の日光院の客院であったが、明治21年(1888)品川御殿山に移され、さらに昭和3年(1928)ここに移築された。
薬師堂
薬師堂(撮影 2011.5.9)
 薬師堂は、元禄4年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることなど禅宗様建築の手法ほとりいれていることである。小規模であるが、創建以後大きな改変もなく、元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。
鐘楼
鐘楼(撮影 2011.5.9)
 この鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたものである。銘文は、桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が、将軍家の祈願寺として、幕府のあつい庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。
多宝塔
多宝塔(撮影 2011.5.9)
音羽講中庚申塔
音羽講中庚申塔(撮影 2011.5.9)
 この庚申塔は、全国にもその例を見ない形式で、当時の民族や習俗を知る貴重な資料である。塔は規模も大きく(総高210cm)基檀部分、台座、塔部から形作られている。塔部は台座上の三猿によって空中で支えられ、天明5年(1785)の銘がある。
大師堂
大師堂(撮影 2011.5.9)
 元禄14年建立の旧薬師堂を、大正15年に大修理して移建したのが、今の大師堂である。当山の大師堂は、高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。祖師尊像前には護摩壇が築かれ護摩法が修される。
大隈重信の墓
大隈重信の墓(撮影 2011.5.9)
 大隈重信は、佐賀藩主の長男として生まれた。地元で儒学、国学、蘭学、英語などを学んだ後は、京や長崎で尊攘運動に身を投じた。新政府では参議大蔵卿となる。木戸孝允と結び、若手官僚の幹部となった大隈は、地租改正などの改革を担当し、殖産興業を推進した。また酒造税を増徴し、官営工場を払い下げる方針を決定した。
三条実美の墓
三条実美の墓(撮影 2011.5.9)
 三条実美は江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府では太政大臣を務め、内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。
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