吉田松陰

吉田松陰
吉田松陰寓寄処 吉田松陰像(撮影 2017.8.12)

 天保元年(1830)8月4日、吉田松陰は長州藩主・杉百合之助の次男として萩城下に生まれた。本名、杉大次郎。6歳の時に叔父で山鹿流兵法の師範であった吉田大助の養子になるが、翌年、義父が死去したことから吉田の家督を相続し、吉田大次郎と改名した。その後松陰は、叔父の玉木文之進が開いた「松下村塾」に通うようになる。ここで徹底的に兵学をたたき込まれた松陰は、なんと9歳で藩校「明倫館」の教授見習いとなり、10歳で教授となった。さらに、11歳で藩主・毛利敬親を前に軍学講義を行い、大人たちを敬服させたという。

吉田松陰寓寄処
吉田松陰寓寄処 隠れの間(撮影 2017.8.12)

 江戸に出た松陰は、儒学者でありながら蘭学や西洋兵学を取得し外国事情に詳しかった佐久間象山と出会い、師事する。
 当時皮膚病を患っていた松陰は、温泉による治療のため、下田蓮台寺を訪れ、向い側にある共同湯で夜を明かそうとしていた。そこで偶然この家の主、村山行馬郎医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。
 松陰の居間として使われた二階の天井の低い部屋(隠れの間)である。

吉田松陰と金子重輔の像
弁天島 吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」の像(撮影 2017.8.12)

 弁天島は、嘉永7年(1854)3月27日夜、吉田松陰が金子重輔とともにアメリカ艦船ポーハタン号に向けて小船を漕ぎだした地である。

吉田松陰踏海企ての跡
弁天島 吉田松陰踏海企ての跡(撮影 2017.8.12)

 松陰は上陸していたアメリカ人に投夷書とよばれる密航依頼文を渡し、ポーハタン号に向かったが、アメリカ側こ拒否されたために計画は失敗におわった。

吉田松陰拘禁の跡
吉田松陰拘禁の跡(撮影 2017.8.12)

 密航に失敗し自首した吉田松陰と金子重輔が、下田奉行所の命により拘禁された宝光院長命寺(廃寺)の跡地である。

十思公園 吉田松陰先生終焉の地
十思公園 吉田松陰先生終焉の地(撮影 2017.12.19)

 吉田松陰は、安政の大獄に連座して伝馬町獄に入牢となった。十思公園はに、処刑の時の近づいたのを知って「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」と刻んだ辞世の歌碑がある。

松陰神社 吉田松陰像(撮影 2000.12.23)
松陰神社 吉田松陰像(撮影 2000.12.23)

 松陰神社境内には吉田松陰の墓がある。松陰は安政6年(1859)10月27日、江戸伝馬町獄舎で死刑、小塚原に葬られた。文久3年(1863)、高杉晋作ら門弟が遺体を毛利家抱屋敷の若林に移葬した。

松陰神社 吉田松陰の墓(撮影 2000.12.23)
松陰神社 吉田松陰の墓(撮影 2000.12.23)

 墓標は「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれ、その向って右に小林民部良展、頼三樹三郎、福原乙之進、左側に来原良蔵・同夫人、綿貫治良助、中谷正亮、野村靖・同夫人の墓など師弟の墓が並んでいる。

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