天海(慈眼大師)

寛永寺 天海僧正毛髪塔
寛永寺 天海僧正毛髪塔(撮影 2013.5.8)
 東叡山寛永寺開山の天海(慈眼大師)は、初代徳川家康秀忠家光と三代の将軍にわたって深い帰依を受け、幕府の精神的な支えとして活躍した。陸奥国大沼郡高田に生まれ、豪族虚名一族の出身といわれている。若い時から学殖も広く英オとし嘱望され、現在の川越喜多院の名僧豪海の門に入り、僧名を随風から天海に改めた。まず織田信長の焼き打で全山疲弊し切った比叡山の復興を命ぜられ、幕府の支援を得て、現在の根本中堂をはじめ数々の堂字を亙建された。
 寛永寺は当初、徳州将軍家の祈祷寺として創建されたが、その造営は天海により、すべて比叡山延暦寺に倣って行われている。それだけではなく、江戸庶民の憩いの場とするべく吉野の桜を取り寄せて上野の山を桜の名所とし、また不忍池には蓮を植えて放生池とした。一方、木活字を用いての経典出版という画期的な事業を行い、その木活字は現在重要文化財に指定されている。天海は、寛永20年(1643)10月2日に百八歳という長寿を全うされた。
 墓所は日光山輪王寺慈眼堂御廟にあるが、当山には山内子院の本覚院第一世の晃海が供養塔を建立し、後に同院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔も建立された。
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