鎌倉幕府跡と宝戒寺(はぎ寺)
(鎌倉)

鎌倉駅(JR横須賀線)~鎌倉幕府跡~宝戒寺~鶴岡八幡宮(源氏池畔)~鎌倉駅(JR横須賀線)
mark鎌倉幕府跡(かまくらばくふあと)

 昨日は10月下旬頃の気温まで下がり、急に秋がやって来たが、今日の鎌倉も曇り空で薄寒く感じられた。花の名所で知られる「宝戒寺の白萩」が見頃を向え、鶴岡八幡宮周辺の鎌倉幕府跡と宝戒寺を訪れた。

大蔵幕府跡
大蔵幕府跡
宇津宮辻子幕府跡
宇津宮辻子幕府跡

 源頼朝が創設した武家政権で、将軍と御家人の主従関係に立脚し、御家人の利益を守る組織であった。治承4年(1180)にまず侍所が設置され、当初は御家人の宿直警衛などの機関にすぎなかったが、やがて軍事・警察と御家人統制の重要機関となった。初代の別当には和田義盛が任ぜられた。ついで寿永3年(1184)に公文所が設置され、源氏の家政を扱い、やがて幕府の一般政務・財政を扱う機関となり、頼朝が右大臣に任ぜられたのち、建久2年(1191)に公家の制にならい政所と改称された。公家出身の大江広元を招いて別当とした。文治元年(1192)に頼朝が征夷大将軍就任で名実ともに確立した。頼朝の死後北条氏が執権として実権を握り、評定衆を中心とする合議制と、御成敗式目による公正な裁判を行ったが、宝治元年(1247)の三浦一族が滅ぼされた宝治合戦を境に、北条氏の独裁体制に移行した。
 宇津宮辻子幕府は嘉禄元年(1225)、三代執権北条泰時と連署北条時房の発案により、今までの大蔵の地から幕府を宇津宮辻子の北側、若宮大路の東側に移すことに決定した。その理由は、鎌倉の中心に位置し、東は滑川(青龍)、西は若宮大路(白虎)、南は海(朱雀)、北は鶴岡(玄武)の四神を配した縁起のよい土地だったからである。その範囲は東西56丈5尺(約213m)、南北61丈(約230m)だったとされている。やがて泰時はこの新御所の北側に隣接して北条の屋敷をかまえ、嘉貞2年(1236)に3番目の若宮大路幕府に移るまで四代将軍藤原頼経を擁して、ここで12年間政務を執ったとされたといわれる。

若宮大路幕府跡
若宮大路幕府跡

 嘉貞2年(1236)に、三代執権北条泰時が南隣の宇津宮辻子からこの地に幕府を移し、以降元弘3年(1333)の鎌倉幕府の滅亡まで約1世紀にわたって北条氏の執権政治が行われたところと従来いわれてきた。しかし、最近は宇津宮辻子幕府と同じ敷地内に増改築されたものという解釈が有力である。『吾妻鏡』によると嘉貞2年(1236)3月20日に、若宮大路の東側に幕府や持仏堂などを新築することにより、4月に着工し、6月に持仏堂の柱建てや、新御所の寝殿以下の建物を上棟して、7月には各門を建てている。そして8月に完成して四代将軍藤原頼経は泰時邸からの移転の儀を行っている。

mark宝戒寺(ほうかいじ)
本堂
本堂
北条執権邸(小町亭)跡
北条執権邸(小町亭)跡

 後醍醐天皇が北条氏の霊を慰めるために、北条執権邸(小町亭)あとに建立し、のち足利氏に所領を安堵され降盛をむかえた。本堂の本尊地蔵菩薩坐像は胎内銘から貞治4年(1365)、三条法印憲円の作とわかり、京風の穏やかな表情をもち子育経読地蔵と呼ばれている。

宝戒寺のハギ
宝戒寺のハギ(花の名所100選)

 花の名所でも知られ、春の「ハクモクレン」、夏の「サルスベリ」、秋の「ヒガンバナ・ハギ・ホトトギス」、そして冬の「ウメ・ツバキ」。なかでも、秋の彼岸の頃の白萩が有名である。

サルスベリ
サルスベリ

歓喜天
歓喜天
白彼岸花
白彼岸花

 鎌倉期の歓喜天像が安置されている。この像は土紋装飾をもつ像頭人身の双身像であるが秘仏で公開されていない。

mark鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)

 横浜国大付属小中から鶴岡八幡宮に入った源氏池畔では、郷土芸能大会の「祭りばやし大会」が行われており、子供達の祭りばやしの笛・太鼓が鳴り響いていた。

子供達の祭りばやし
子供達の祭りばやし
今日は例大祭
今日は例大祭

 今日は鶴岡八幡宮の「例大祭」でもあり、大勢の観光客が訪れていた。例大祭は9月14日から16日にかけて行われ、中でも流鏑馬(9月16日)は有名である。

さざれ石
さざれ石
源氏池に咲く赤紫色の萩
平氏池に咲く赤紫色の萩

 国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠ばれている「さざれ石」。石灰石が雨水で溶解され生じた乳状液が小石を凝結して「君が代」に詠ばれているように大きくなって岩に成長したものである。
 平氏池畔にある「お休み処」で熱いコーヒーを飲み休憩。その後、池の畔に咲いていた赤紫色の萩の写真を撮り、人出で賑わう小町通りの商店街を眺めながらJR鎌倉駅に戻った。

⇒ 鶴岡八幡宮周辺 ウォーキングマップ