観音崎から浦賀を歩く
(観音崎~久里浜)

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観音崎バス停(京急バス)~観音崎灯台~観音崎自然博物館~浦賀の渡し~燈明堂~ペリー上陸記念碑~久里浜駅(JR横須賀線)
mark観音崎灯台(かんのんざきとうだい)

 京浜急行の馬堀海岸駅前から路線バスに乗り換えて観音崎に着いた。すでにレストハウス近くの駐車場には自家用車が多く駐車されていた。海水浴場の砂浜ではテントを張り、子どもたちは磯の生物観察を楽しんでいた。海岸園地を通り抜け、灯台へ上がる階段を登ると灯台の正面に出る。敷地内には80周年記念の「高浜虚子が詠った歌碑」と、100周年記念の「初代海上保安長官が詠った歌碑」が残っている。

観音崎海水浴場
観音崎海水浴場
歌碑
歌碑

 昭和31年(1956)、横須賀都市計画公園に決められ、その規模の大きさと広域的な利用者があることなどから、県立公園として整備することとなり、昭和50年(1975)には最大の観音崎公園(公園50選)として誕生した。

観音崎灯台下の海岸園地
観音崎灯台下の海岸園地
観音崎灯台
観音崎灯台

 観音崎灯台は、アメリカ、イギリス、オランダの四か国と結んだ江戸条約で建設を約束した8灯台のひとつである。また、当時、幕府が建設を進めていた横須賀製鉄所に出入する船舶のため、東京湾口に灯台の建設を計画していたこともあって、この事業を引き継いだ明治新政府は、発足早々建設に着手した。建設したのは、横須賀製鉄所雇フランス人首長フランソア・レオンス・ヴェルニーである。観音崎灯台は、従来観音崎航路標識事務所として職員が家族ともども居住して、灯台や無線の保守を行っていたが、業務の合理化により平成元年(1989)5月事務所は廃止し、機械類はすべて自動化して無人となり、現在は従来観音崎航路標識事務所から職員が定期的に巡回し点検にあたっている。かっては菜種油や落花生油、石油、アセチレンを混ぜて光源に使用したという。現在の灯台は三代目で、映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケが行われたことでも知られている。

北門第1砲台跡
北門第1砲台跡
砲台跡
砲台跡

 灯台を少し下った場所に、明治17年完成した北門第1砲台跡(半円形の砲台と地下室の弾薬庫に通じるトンネル)が今も残っている。また、海の見渡しがよい場所には、戦争や海難事故の犠牲となった船員の霊を慰める戦没船員の碑が建てられている。

戦没船員の碑
戦没船員の碑
海の見晴台
海の見晴台

プロンズ群像
プロンズ群像

 戦没船員の碑は、第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられた。高さ24mの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑、プロンズ群像などがある。

天皇陛下御製碑
天皇陛下御製碑
皇后陛下御歌碑
皇后陛下御歌碑

mark観音崎自然博物館(かんのんざきしぜんはくぶつかん)
観音崎自然博物館
観音崎自然博物館
磯の生物観察会に参加する子どもたち
磯の生物観察会に参加する子どもたち

 観音崎公園から海岸へ通じる坂道を下った所に観音崎自然博物館がある。博物館横のたたら浜海岸は、海水浴を楽しむ親子、生物の水中観察する子どもたちでにぎわっていた。また、年配者に懐かしい昭和30年代のゴジラの写真を見ることができる説明板がある。

ゴジラの滑り台(説明板の写真)
ゴジラの滑り台(説明板の写真)
たたら浜
たたら浜

 ゴジラの滑り台は、昭和33年(1958)から昭和48年(1973)まで、ここ、たたら浜にゴジラの滑り台があった。当時、ゴジラ映画の第1作でこの地にゴジラが初出現したことを記念して地元有志と協賛企業が協力してゴジラの滑り台をつくった。平成8年(1996)には、横須賀市のくりはま花の国内、冒険ランドに再現されている。

mark東叶神社(ひがしかのうじんじゃ)

 観音崎自然博物館から観音崎大橋、鴨居港、かもい団地を通り、浦賀港に向って歩いた。厚いさなかの1時間歩きは体力的にも大変で、東叶神社に着いたときには、全身の汗が止まらなかった。

東叶神社
東叶神社
ソテツ
ソテツ

 東叶神社の祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇。石段の両脇に植えられているソテツは、源頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。

mark浦賀の渡し(うらがのわたし)

 東叶神社から浦賀港に向った所に「浦賀の渡し」がある。現在の愛宕丸は平成10年(1998)8月に就航した御座船風のデザインになっている。乗客は私一人だったが、備付けのボタンを押したら、向う岸から渡し船がやってきた。たった3分間の乗船ではあったが、浦賀港を通り抜ける潮風が、とても涼しく感じられたひとときであった。(片道料金150円)

浦賀の渡し
浦賀の渡し
西渡船場
西渡船場

 浦賀の渡しは、280年ほど前から浦賀の東西を結ぶ人々の足として利用され、この町のシンボルとなっている。時刻表はなく、船がいなければボタンを押して呼ぶと、向う岸から渡し船がやってくる。航路は「浦賀街道」と呼ばれ、横須賀市の市道2073号である。

浦賀の渡し船「愛宕丸」
浦賀の渡し船「愛宕丸」
船頭さん
船頭さん

mark西叶神社(にしかのうじんじゃ)
西叶神社
西叶神社
拝殿の彫刻
拝殿の彫刻

 浦賀港西にある西叶神社の祭神は、東叶神社と同じく応神天皇。本殿と幣殿は総檜造、拝殿は総檜造である。花鳥草木の透彫りの格天井は、後藤利兵衛の彫刻である。西叶神社の近くには、愛宕山公園、船番所跡、陸軍桟橋などがある。

船番所跡と陸軍桟橋
船番所跡と陸軍桟橋
ヴェラシス浦賀1番館
ヴェラシス浦賀1番館

 船番所跡は浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗務員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。また、近くには、太平洋戦争終結時、南方からの引揚者が数十万上陸した陸軍桟橋が残っている。

mark燈明堂(とうみょうどう)

 陸軍桟橋から、ヴェラシス浦賀1番館とシテイマリーナヴェラシスの前を通り、燈明崎にある燈明堂へと向った。燈明堂は木造2階建ての日本式の灯台で、1階は番人小屋、2階は菜種油使用して海上を照らした。

燈明崎
燈明崎
燈明堂
燈明堂

燈明崎
燈明崎
燈明堂
燈明堂

 燈明堂は、浦賀水道の船の往来が激しくなったことから、慶安元年(1648)に幕府の命によって建てられ、明治5年(1872)まで続いた。現在の燈明堂は昭和63年(1988)に横須賀市指定史跡の石垣上に復元されたもの。

markペリー公園(ペリーこうえん)

 燈明堂から約40分で久里浜港、開国橋に着いた。ペリー公園前の砂浜では、若者たちは日光浴をし、日陰でバーベキューを楽しんでいた。

ペリー上陸記念碑
ペリー上陸記念碑
ペリー記念館
ペリー記念館

 記念碑は、もとペリー艦隊乗組員のビアズリー退役海軍少将が再来日し、記念碑がないことを嘆いたことがきっかけで、明治34年(1901)7月14日、米友協会がたてたものである。碑には伊藤博文の筆で「北米合衆国水師提督伯理上陸紀年碑」とある。しかし、太平洋戦争中は、敵国の記念碑は屈辱だとして、引き倒され、戦後すぐに復元されるという運命にもあっている。公園内にペリー記念館がある。

ペリー提督
ペリー提督
東京湾フェリー(久里浜港)
東京湾フェリー(久里浜港)

 東インド艦隊司令官のペリー提督。日本を開国させるという使命を帯び、断固たる決意のもと日本にやって来た。ペリーの日本遠征は、第一の目的は日本に開国させることではあったが、ほかにも狙いがあった。琉球の占領と小笠原の補給基地化である。これは、幕府に開国を拒否された場合のことを考えての作戦だった。

⇒ 観音崎~久里浜周辺 ウォーキングマップ

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