鎌倉歴史散歩(護良親王の墓・永福寺跡・法華堂跡)
(浄明寺~岐れ道)

浄明寺バス停(京急バス)~浄妙寺~護良親王の墓~永福寺跡~瑞泉寺~荏柄天神社~法華堂跡~岐れ道バス停(京急バス)
mark浄妙寺(じょうみょうじ)(鎌倉五山第五位)
山門
山門
梅林
梅林

 鎌倉時代、足利義兼が退耕行勇を開山としてたでた極楽寺が、義兼の子義氏のときに密教系の寺院から禅宗の臨済宗にかわったという。それは建長寺開山蘭渓道隆の法をついだ月峯了然が住職となったためで、寺名も浄妙寺とかわっている。

境内(国史跡)
境内(国史跡)

 山門から境内にはいると、禅宗方丈の形状をよく残している仏殿がある。

本堂
本堂
開山堂
開山堂

 本尊は南北朝期の釈迦如来像で、淡島明神像などもまつられている。
 開山堂は、退耕行勇像(国重要文化財)が安置され、簡潔な刀法に個性をよく表現して、南北朝期の項相彫刻のすぐれたものである。堂内には珍しい三宝荒神像や藤原鎌足像も祀られている。

足利貞氏の墓
足利貞氏の墓
ロウバイ
ロウバイ

 裏の基地には足利貞氏の墓と伝える「明徳三(1392)年」の銘をもつ宝篋印塔がある。塔身の正面だけに宝生如来を浮彫りにし、ほかの面は梵字をきざんでいる。足利尊氏の父貞氏は浄妙寺殿とよばれ、ここに葬られており、中興開基とみられる。元亨3年(1323)の北条貞時の十三年忌に浄妙寺から51人の僧衆が参加している。足利義満のころ定められた五山制では鎌倉五山の第五位とされ、塔頭も23あったといわれる。

茶室・喜泉庵
茶室・喜泉庵
枯山水の庭園
枯山水の庭園

 天正年間(1500年代)僧が一同に茶を喫した喜泉庵があった。枯山水の庭園は、平成3年(1991)復興、開席、庭園は杉苔を主とした枯山水である。

mark護良親王の墓(もりよししんのうのはか)
理智光寺跡
理智光寺跡
カンザクラ
カンザクラ

後醍醐天皇王子 護良親王墓
後醍醐天皇王子 護良親王墓
急な階段
急な階段

 宮内庁管轄の護良親王の墓(非公開)がある。淵辺義博が捨てた護良親王の首を、そばにあった理智光寺の僧がここに埋葬したと伝え、首塚とよばれている。

苔むした階段
苔むした階段
護良親王の墓
護良親王の墓

 後醍醐天皇の皇子護良親王は、鎌倉幕府倒幕計画に加わり、還俗して護良と改め、千早城の楠木正成と呼応して吉野城で鎌倉幕府の軍勢を悩ませ、幕府打倒に貢献した。建武の新政では征夷大将軍・兵部卿となったが、後醍醐天皇や足利尊氏と対立を深め、ついにとらえられ、鎌倉に流された。建武2年(1335)北条時行が鎌倉に乱入した際、鎌倉にいた足利直義の命により、淵辺義博に殺された。

mark永福寺跡(ようふくじあと)
永福寺跡(国史跡)
永福寺跡(国史跡)
西側の阿弥陀堂跡
西側の阿弥陀堂跡

 源頼朝が建立した三大寺院(鶴岡八幡宮・勝長寿院、永福寺)の1つで、文治5年(1189)奥州藤原氏を攻めたとき・藤原氏のたてた中尊寺二階大堂大長寿院や毛越寺、無量光院などをみた頼朝が、それを参考に、源義経や藤原氏ら奥州合戦で死んだ人びとの怨霊供養のため建立した。広い苑池は浄土庭園といわれ、砂利をしきつめた洲浜の景観をはじめ、数多くの庭石・立石、左翼廊脇に池にそそぎ込む遣水がつくられ、池に景石を配した庭園になっていた。

中央の二階堂(永福寺)跡
中央の二階堂(永福寺)跡
東側の薬師堂跡
東側の薬師堂跡

 建久3年(1192)本堂の二階堂が、建久5年年(1194)までに阿弥陀堂・薬師堂などの三堂が完成している。三堂は、西側の山ぎわで東を向き、中央の二階堂(永福寺)は正面22.5mX奥行20.6m、柱間が5間四方で、両脇堂は正面16.7mX奥行12.7m、柱間が5間×4間の跡が確認されている。

二階堂と薬師堂跡
二階堂と薬師堂跡
橋跡
橋跡

 西側の阿弥陀堂と東側の薬師堂は、二階堂と複廓とよぶ幅の広い廊下で結ばれ、両脇堂から三堂前の苑地に向かって翼廊がのびていることから、三堂・複廊・翼廓の各建物が一体となって、苑池とともに伽藍を構成している。
 二階堂前の池には橋がかかっていた。

mark瑞泉寺(ずいせんじ)
通玄橋
通玄橋
錦屏山瑞泉寺
錦屏山瑞泉寺

 通玄橋から500mほどいくと突き当りの紅葉ケ谷に瑞泉寺(臨済宗)があり、山号を錦屏山という。

総門
総門
参道
参道

参道
参道
吉田桧陰留跡碑
吉田桧陰留跡碑

 幕末には吉田桧陰が、住職になっていた伯父の竹院和尚を4回ほど訪ね、のちに瑞泉寺を想う漢詩を残している。

山門
山門
本堂と枝垂れ梅
本堂と枝垂れ梅

 南北朝期に入り、足利尊氏の子で鎌倉公方の基氏は夢窓疎石に帰依し、貞治6年(1367)に没すると違命で瑞泉寺に葬られた、以後、鎌倉公方代々の菩提所として栄え、鎌倉五山につぐ関東十刺の第1位とされた。塔頭も10余を数え、義堂周信のような五山の高僧も住職となり、訪れる高僧も多く、五山文学の一中心ともなった。室町時代後期には衰微したが、江戸時代には円覚寺から住職がはいって再興された。水戸藩二代藩主徳川光圀が『新編鎌倉志』編纂のために訪れ、徧界一覧亭を再建し、観音菩薩像を安置した。また、一覧亭集詩板をかけたといわれる。

本堂と黄梅(国史跡)
本堂と黄梅(境内国史跡)

 正面奥の仏殿は、円覚寺舎利殿と同様の禅宗様で再建されている。なかに釈迦如来像や、7人の天皇に信頼されて七朝帝師といわれた夢窓疎石像、徳川光園寄進という千手観音菩薩像などが祀られている。

黄梅
黄梅

 黄梅は、江戸時代から知られた梅の老木花弁は退化し、淡黄色幹回り大きくないが、古い木と推定される。牧野富太郎博士はこの梅の木により品種名を与えられた。

スイセン(花の名所100選)
スイセン(花の名所100選)
スイセン
スイセン

 「花の寺」といわれ、スイセンを筆頭にウメ、オウバイ、フクジュソウ、マンサク、モクレン、シダレザクラなど春の花が次々に咲いていく。早春に咲くスイセンは境内の至る所に咲いているが、開山堂から回りこむ庭園を背景にした場所が一番、風情がある。

瑞泉寺庭園(国名勝)
瑞泉寺庭園(国名勝)

 裏の瑞泉寺庭園は発掘復元され、夢窓疎石作庭のころの様子を知ることができる。

橋
貯清池と天女窟
貯清池と天女窟

 山裾を切りおとした崖(切岸)を背景に貯清池があり、中島がつくられ、橋がかかり、切岸には天女窟・坐禅窟が穿たれている。その脇に高い滝口がみられ、橋からは裏山の山上にある徧界一覧亭から十八曲の急坂へと道が続いている。

錦屏晩鐘
錦屏晩鐘
黄梅
黄梅

大宅壮一評論碑
大宅壮一評論碑
山崎方代歌碑
山崎方代歌碑

 大宅壮一評論碑
  男の顔は履歴書である
 山崎方代歌碑
  手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る

mark荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)
菅公一千年祭記念碑
菅公一千年祭記念碑
紅梅
紅梅

 荏柄天神社は、縁起によれば、長治元年(1104)8月25日に雷雨とともに天神画像がくだり、里の人が社殿をたてその画像をおさめ、大イチョウの木を植え、神木としたという。大倉幕府の鬼門の守護神として崇拝されたと伝えられる。

拝殿(境内国史跡)
拝殿(境内国史跡)

 九州の太宰府天満宮や京都の北野天満宮と並ぶ日本三天神の1つに数えられている。明治の神仏分離まで、東寺の末寺である一乗院(廃寺)が別当として管理していた。神門をはいると、左右に紅梅と白梅を配したさきに、鶴岡八幡宮の仮殿を移した拝殿と本殿からなる社殿がある。

紅梅
紅梅
白梅
白梅

本殿(国重要文化財)
本殿(国重要文化財)

 本殿は、元和8年(1622)鶴岡八幡宮造営のときに八幡宮の若宮社本殿を移築した、鎌倉に残る最古の木造建築である。本殿は三間社流造造の形式で、社宝には「弘長元(1261)年」銘の木造天神坐像(国重要文化財)や、木造菅公立像(国重要文化財)があり、ともに鎌倉期の作で「怒り天神」ともいう。

絵筆塚
絵筆塚
大イチョウ
大イチョウ

 拝殿の左手に「絵筆塚」がある。清水昆、横山隆一らによって建てられたもので、自然石には「漫画家154人の河童絵」がぎっしりと描かれている。訪れた人は、ユニークに描かれた河童達を眺めながら微笑んでいた。
 大イチョウは鎌倉では鶴岡八幡宮につぐ大木である。根回り6.5m、樹齢は900年と伝える。

mark法華堂跡(ほっけどうあと)(国史跡)
法華堂跡
法華堂跡
石段
石段

白旗神社
白旗神社
源頼朝の墓
源頼朝の墓

 頼朝は相模川橋梁視察の帰路の落馬が原因で53歳の生涯を閉じた。遺体は頼朝の持仏堂に安置され、これがのちに法華堂と呼ばれるものである。
 白旗神社がある場所は、頼朝の墓所をまもり、頼朝の霊をまつる法華堂(墳墓堂)があって、江戸時代は鶴岡供僧相承院が兼務していたが、明治初年の神仏分離令に伴い撤去された。堂内にあった如意輪観音や、地蔵菩薩・自休像などは来迎寺に移された。その後の明治5年(1872)、背後の山腹を削りとり1.7m地表に盛土をして、白旗神社が建立され頼朝の霊をまつるようになった。

法華堂跡(北条義時墓)
法華堂跡(北条義時墓)
毛利季光の墓(左側)
毛利季光の墓(左側)

 鎌倉幕府第二代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡である。北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創立を助けた。承久3年(1221)の承久の乱において後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなった。
 ここから、さらに石段をのぼると、石垣のなかに穴が並んでいる。いずれも古墳時代後期の横穴墓を改修したもので、内部に近世以降のものと与られる五輪塔がたっている。
 毛利季光(大江広元の子)は、中国地方の大名である毛利氏の祖といわれる。宝治合戦では三浦方につき、三浦一族と共に源頼朝の法華堂で自刃した。

大江広元の墓(中央)
大江広元の墓(中央)
島津忠久の墓(右側)
島津忠久の墓(右側)

 大江氏は平安時代以降、文章道をつかさどった公家。大江広元は中原広李の子で、源頼朝の招きによって元暦元年(1184)に下向し、鎌倉幕府の公文所の別当となった。守護地頭の設置建議など、幕府の基礎づくりにたずさわり、後には北条氏独裁体制の成立を支持し勢力を維持した。
 島津忠久は、のちの南九州地方の大名となる島津氏の祖である。

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