鎌倉歴史散歩(元八幡・和田塚・浄光明寺)
(鎌倉)

鎌倉駅(JR横須賀線)~元八幡~和田塚~浄光明寺~鎌倉駅(JR横須賀線)
mark一の鳥居(いちのとりい)
一の鳥居
一の鳥居(国重要文化財)

 四代将軍徳川家綱が再建・寄進した一の鳥居がある。「寛文八(1668)年」銘のある石造の大鳥居である。

若宮大路(国史跡)
若宮大路(国史跡)
畠山六郎重保の墓
畠山六郎重保の墓

 若宮大路(古道50選)は、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮への参道である。発掘調査の結果、一の鳥居から社頭にかけては、若宮大路は現在よりも広い道で、13世紀末期以降には両側に側溝があり、その外側は屋敷の板塀で区切られていた。東側には将軍御所(幕府)や北条氏などの屋敷もあって防衛線のような役割をはたしていたと推定されている。
 一の鳥居の西側に鎌倉時代初期の武将として名高い畠山重忠の子で、北条時政の陰謀により畠山重忠の乱の直前に殺害された、畠山六郎重保の墓と伝えられる総高3.46mの立派な宝篋印塔がある。

mark元八幡(もとはちまん)
元八幡入口
元八幡入口
元八幡(国史跡)
元八幡(国史跡)

 源頼義が前九年の役(1051~62年)で、奥州の安倍頼時・貞任父子を討って京へ帰る途中の康平6年(1063)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に、京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願してかなえられたので、その祭神を勧請したといわれている。

本殿
本殿
旗立の松
旗立の松

 頼義の子八幡太郎義家は、後三年の役(1083-87年)で奥州へいく途中の永保元年(1081)に参詣して社殿を修理し、源氏の氏神として信仰したという。鎌倉に居を定めた源頼朝が、治承4年(1180)に小林郷北山(現在地)に八幡宮の社殿を移してから元八幡とよぶようになったが、正しくは鶴岡由比若宮である。
 本殿前には義家が端を立てかけた「旗立の松」がある。

mark六地蔵(ろくじぞう)
琵琶小路
琵琶小路
六地蔵
六地蔵

 六地蔵交差点の石垣の上に石碑と六地蔵がある。ここからやや北に寄ったところに刑場があったといわれ、ながく荒地となって飢渇畠とよばれていた。ここに人びとが罪人の霊をとむらうために地蔵をまつったのが六地蔵の始まりで、のちに人どおりの多い現在の場所に移された。

mark和田塚(わだづか)
江 ノ島和田塚駅
江 ノ島和田塚駅
和田塚
和田塚

 江ノ電の踏切を渡ると、石で積みあげた小さな丘境に20基余りの五輪塔が並んでいる和田塚がある。この塚はもとは無営常堂塚といわれていたが、明治の中ごろ、道路工事の際、塚の一部から人骨がでたことから、和田義盛一族らの墓地であるといわれ、和田塚といわれるようになった。
 三浦義澄の時、源頼朝に仕え、頼朝の死後は一族の和田義盛とともに、のちの評定衆の原型となる13人の合議制の一員に名を連ね、幕府内で権力を握った。建暦3年(1213)、義盛の甥和田胤長などの一族の何人かが、頼家の遺児をかついでの幕府に対する陰謀に荷担したとの嫌疑に端を発し、和田氏一族が峰起して幕府をおそった。義盛の子、朝比奈義秀らの奮戦により、大倉の御所は炎上し、実朝らは一時難をさけるほどだったが、無勢の和田側は力つきて敗北した。(和田合戦)

今小路
今小路
御成小学校(旧講堂)
御成小学校(旧講堂)

 今小路は由比ガ浜通りの六地蔵から、市役所前を通って化粧坂切通し・亀ヶ谷坂切通しに通じ、鎌倉時代の武蔵大路と同じ道筋と見られる。

mark浄光明寺(じょうこうみょうじ)
山門
山門
石碑
石碑

 やぐらの背後の山上に安山岩製の宝篋印塔の冷泉為相の墓(国史跡)がある。為相は歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖である。(仏殿上部の拝観は、木・土・日曜のみ)

客殿
客殿

 開基は鎌倉幕府六代執権北条長時で、延長3年(1251)の創建という。開山については、真阿(真聖国師)とされている。本尊の阿弥陀三尊像は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形である。

客殿前の紅萩
客殿前の紅萩
境内のヒガンバナ
境内のヒガンバナ

不動堂
不動堂
鐘楼
鐘楼

⇒ 和田塚周辺 ウォーキングマップ