逗子マリーナのはずれにある小坪飯島公園は、材木座海岸や和賀江島(わかえじま)、遠くに江ノ島が見える場所であった。
保元元年(1156)、平安時代後期の武将、源為朝は、京で起こった保元の乱で敗れ、弓を引けないよう腕の筋を切られて伊豆の大島に流された。しかし、為朝は自分の弓の力をためしたくて、大島から鎌倉の光明寺の裏山にある天照山めがけて矢を放ったところ、六角ノ井(鎌倉十井)に落ちたという伝説がある。
「和賀江島は往阿弥陀仏(勧進僧)が鎌倉の船の着岸の便をはかろうとして、三代執権北条泰時の協力を得て、貞永元年(1232)に伊豆石で築いた石材が、潮が引くと姿をあらわしその面影を伝えている。飯島岬から海中に約200m延びた石積みの防波堤だったと考えられる。」(※)
現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されている。
座とは、平安末期から室町時代にかけて商工業者・交通運送業者・芸能人など、同業者同士の結合として組織された特権的な団体である。材木座は、材木を扱う商人の座で、その場所は現在でも材木座と呼ばれているところで、当時、西浜とか飯島といわれ、鎌倉初期から鎌倉の建築に必要な材木の集散地となっていた。