織田家菩提所・有栖川宮祈願所の崇福寺

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mark崇福寺(そうふくじ)
金華山
金華山

 「標高329mの金華山(稲葉山)山頂には、昭和31年(1956)に復興された岐阜城天守が白く輝く、明治21年(1888)に開園した岐阜公園のある山麓部分に信長居住跡があり、現在も発掘作業がつづけられている。下を流れるのが、鵜飼で知られる長良川である。」()

山門
山門
大方玄関
大方玄関

 長良橋を渡った北側は、鵜匠が多く居住した場所で鵜飼屋の地名が残っている。その北西一帯は福光とよばれ、室町時代後期には、土岐氏の守護所が岐阜市南部の革手より移された。その福光に崇福寺がある。

中門(勅使門)
中門(勅使門)

稲葉一鉄寄進の梵鐘
稲葉一鉄寄進の梵鐘
本堂
本堂

 「稲葉一鉄は、西美濃の豪族、因幡道貞の末子で、当山第二世仁岫のもとで修行をしていた。しかし、大永5年(1525)牧田の戦いで父子6人が討死したので、11歳の一鉄は還俗し、家を継ぎ、土岐頼芸に仕えた。土岐氏滅亡後、斎藤氏に仕え、曽根(大垣市)を居城とし、西美濃三人衆の一人として活躍した。その後、織田信長豊臣秀吉などにも仕え、清水城(揖斐川町)で、74歳で死去。一鉄寄進の梵鐘は、元和元年に改鋳された。本堂の"血天井"は織田信長の孫三法師秀信が慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前夜西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城が落城した際、戦死した将兵(38名)の霊を弔うため城の床板を天井に張ったもので、今でも血痕が付着している。」()

斎藤利匡一族の墓
斎藤利匡一族の墓
本堂前石庭
本堂前石庭

 「当山開基斎藤利匡(利安の子)一族の宝筐印塔で、これらの塔は、文明・永正年間に建てられたものである。この地は、元々利安の長良館であったが、守護土岐成頼と家臣利安が同じ夜、夢の中で「この地に寺を建てるように」というお告げを聞き、利安が寄進したと伝えられていた。しかし、現在では利安の子・利匡が開基であるという説が定着。」()

織田信長父子廟を望む
織田信長父子廟を望む

織田信長父子の墓碑
織田信長父子の墓碑
織田信長父子の墓碑
織田信長父子の墓碑

 「天正10年(1582)本能寺の変で、織田信長とその子信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室小倉氏がその遺品を送り、位牌を安置した。信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cm、位牌形の石碑で縦に両分して、父子の法名を左右に並べて刻んである。
総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 覚霊(信長)大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀(信忠)
」()

織田信長公父子廟(位牌堂)
織田信長公父子廟(位牌堂)
織田信長公父子廟(位牌堂)
織田信長公父子廟(位牌堂)

 墓碑の右側に位牌堂があり、土壇の上に4m四方の格子塀に囲まれて、宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置してある。

崇福寺
崇福寺

 崇福寺は臨済宗の妙心派の寺で、寺伝によれば文明元年(1469)2月、美濃守土岐成頼とその家臣斎藤長利安(開基は、斎藤利匡(利安の子)と言われている)が建立し、神護山崇福弘済禅寺と号す。開山は独秀乾才禅師であり、後には織田家菩提所、有栖川宮家祈願所となった。

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