新緑の深大寺・深大寺城跡

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山門
山門

 建物は一間薬医門、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下粽付、下に基礎を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。この門は和様を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。深大寺は、慶応元年(1865)の大火によって建物の大半を失った。この山門はその時の災禍を免れた建物の一つであって、寺で保管する元禄8年(1695)の棟札によって建立年代が明かである。

タイサクボク(泰山木)
タイサクボク(泰山木)
シダレカツラ(枝垂れ桂)
シダレカツラ(枝垂れ桂)

 タイサクボクは北アメリカ原産の常緑高木で高さ10〜20mになる。明治の初めに渡来し、各地でよく植えられている。5〜6月、枝先に大型の白花を開く。強い香りがある。
 シダレカツラは春の新緑、秋の黄葉が美しい。4月ごろ、葉に先立って淡紅色の花を開く。

なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木
ボダイジュ(菩提樹)
ボダイジュ(菩提樹)

 なんじゃもんじゃの木き、日本では本州のごく一部の山地と九州の対馬に隔離分布する珍しい落葉高木。高さ20〜30mになる。5月ごろ白花をつける。
 菩提樹は中国原産の落葉高木で高さ15mぐいになる。寺院の境内でよく見られる。6月ごろ、淡黄色の香りのよい花を開く。

梵鐘
梵鐘(国重要文化財)
本坊旧庫裡
本坊旧庫裡

 山門右手の鐘楼の梵鐘は、天授2年(1376)、鎌倉の鋳造師、山城守宗光の作として由来がある。

本堂
本堂

 深大寺は古代以来の由緒ある寺院である。満功上人により天平5年(733)に創建されたといわれる。この寺は「浮岳山昌薬院深大寺」と称し、開創当時は法相宗であったが、貞観元年(859)天台宗に改められている。開創縁起によれば満功上人は、1300年余りの昔にどこの生まれともしれない福満という青年が深沙大王の助けによって、この地の長者の娘と結ばれて生まれた子であるといわれている。深大寺の名はこの深沙大王に由来する。
 深大寺は、正保3年(1646)と慶応元年(1865)の二度の火災により、諸堂宇の多くを焼失しており、唐破風屋根の現本堂は大正初めの再建である。

清水比庵歌碑
清水比庵歌碑
五大尊池
五大尊池

 清水比庵歌碑
  門前の 蕎麦はうましと 誰もいふ この環境の みほとけありがたや

高浜虚子像
高浜虚子像
高浜虚子句碑
高浜虚子句碑

 高浜虚子は正岡子規に俳句を師事した。「ホトトギス」を主宰し、短歌・小説を加えた文芸誌として刊行した。俳句では伝統的な写実定型句を主張。
 高浜虚子句碑
  遠山に 日の当たる 枯野かな

元三大師堂
元三大師堂

 本堂左手の元三大師堂は、江戸時代に厄除けの参詣で栄えたようですが、『江戸名所図会』に描かれてこいる。この大師堂の壇下から明治42年(1909)に釈迦如来倚像(国宝)が発見された。現在、大師堂の左前方にある釈迦堂に安置され、覆堂のガラスごしに見学できる。

開山堂参詣道
開山堂参詣道
白山社
白山社
開山堂
開山堂
師弟句碑
師弟句碑

 開山堂は昭和58年(1983)深大寺開創1250年記念事業として新築され、遙か天平の開創に思いを馳せる奈良時代様式のお堂である。ご本尊は薬師瑠璃光如来。脇侍に弥勒簿菩薩と十一面観音を奉安し、深大寺を開いた満功上人像と、宗派を天台宗に改めた大楽大師恵亮和尚像をそれぞれお祀りしている。

元祖嶋田屋
元祖嶋田屋
そばぱん
そばぱん

 深大寺そばの元祖嶋田家は文久年間創業。現在は5代目が、その伝統の味を守る。店内からは、亀島弁財天池を囲む四季折々の表情を思う存分楽しむことができる。
 テレビでも紹介された「そばぱん」。種類は、高菜・つぶあん・かぼちゃあん・栗あん・うぐいすあん・しろあんがある。

水生植物園
水生植物園
空堀
空堀

 当園は、深大寺や深大寺城跡などの高台に囲まれ、南北約300m、東西約60m、面積1.33haの細長い形状をした谷戸地にある。付近には、神代植物公園や、深大寺、都立農業高校(農場)などがあり、武蔵野の面影を残す雑木林が今なお残っている。
 当時の空堀は、今より深く斜面は急傾斜であったといわれている。

そば畑
そば畑
第一郭跡(本丸跡)
第一郭跡(本丸跡)

 そばの花の見頃9月中旬、収穫時期は11月上旬である。

都旧跡 深大寺城跡
都旧跡 深大寺城跡
水生植物園
水生植物園

 深大寺バス停から表参道を南東に越えた丘陵が深大寺城跡(都旧跡)である。南・東・北が谷地、西側が台地につながり、その周囲には空堀、土塁の一部が残る。『北条記』によると天文6年(1537)、扇谷上杉朝定が北条氏康(1515〜71)の北上を阻止するためこの城を修築し、家臣難波田弾正広宗を配した。しかし氏康は深大寺城を攻めることなく川越城にむかい朝定は敗れたため、この城はわずか数ヶ月で廃城となった。

第二郭跡(建物跡)
第二郭跡(建物跡)

 建物跡の石柱の集まりは、発見された堀立柱建物のうち2棟の柱穴の位置を示している。建物は武士の屋舎であろうと考えられる。一般に戦国時代の城の建物は丸柱・板葺屋根で、床は中心的な屋形のみにあったといわれている。

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