「八代当主新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内である。昭和9年(1934)に建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されたが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて国史跡に指定された。
義貞が旗挙げを行った時はわずか150騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、15日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれている。」(※)
「新田義貞は、鎌倉時代末期~南北朝時代の郷土武将、清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任ぜられる。延元3年(1338)越前藤島の戦いで壮絶な最期を遂げた。
鎌倉攻め(新田氏vs北条氏)
幕府に不満をもつ武士をつぎつぎと加えながら、義貞軍は鎌倉街道上道を南下した。途中の武蔵国将軍沢郷(埼玉建嵐山町)も世良田氏の所領であり、9日ここに宿営し兵を休めたとみられる。こののち小手指河原(埼玉県所沢市)や分倍河原(東京都府中市)での幕府軍との激戦を勝ちぬき、18日に鎌倉を包囲、22日得宗北条高時以下を自刃に老い込み、鎌倉幕府を滅ぼした。」(※)
この神木はクヌギ(櫟)なり、新田義貞公挙兵の際大中黒の旗をこの樹に掲げ戦捷を祈願した。
「新田荘を代表する平城で、平面形は凸字型で、東西方面は南辺で138m、北辺で75mあり、南北方面は115mある。周囲に水堀や土塁が残る。中世前期に、大館・一井・村田氏ら新田一族の館として築造されたが、戦国時代に金山城の支城となり、3重の堀をめぐらい城郭に拡張された。現在は照明寺となり、厄除けの反町薬師として知られている。」(※)
古典文学『太平記』に登場する名将・新田義貞の名を連ねる新田氏の居館が、太田市にある。市内の東西6km、南北7kmの広範囲に点在する新田荘。国史跡に指定されており、貴重な東国の中世荘園として保存されている。
東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には80mの白壁の塀があった。江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・4月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前までの参拝が許された。この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも言われている。
「寛永21年(1644)、三代将軍徳川家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、徳川家康をお祀りした。奉斉にあたり家光から御領二百万石が寄進され、以降、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされた。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸みたりゃ世良田へござれ・・・」と謡われた。」(※)
拝殿は、元和3年(1617)、将軍家の拝礼する建物として、二条城、名古屋城、江戸城などの築城に携わった名工「中井大和守正清」によって造営され、寛永18年~18年に日光東照宮から移された。
大鉄燈籠は、元和4年(1618)、総社(前橋市)の藩主であった秋元越中守長朝が家康から受けた思願に対する報思から、児玉(埼玉県本庄市児玉町)の鋳物師、中林仲次に依頼し鋳造したもので、明暦4年(1658)、長朝の曾孫喬朝が奉納された。
唐門は、拝殿移築時に日光東照宮奥社神廟前にあった門を移築。門に付随し透塀が本殿を一周している。
本殿は、日光東照宮造営に携った名工達によって当地で造営された。
左甚五郎作といわれる「巣籠りの鷹」は、家内安全・平和を象徴している。真にせまる出来映えのため、古くから野鳥が近づかないと言われている。
室町時代には関東十刹の一つにも数えられた長楽寺。創建当初は臨済宗でしたが、徳川氏の祖といわれる義李(新田義重の子)が創建したとされることから徳川氏の帰依を得て、江戸時代に天台宗に改宗しなった。
昭和16年(1941)に建立されたこの塔は、当時の世良田村有志十数名からなる発起人により、各種団体の賛同により、浄財が寄せられ完成した。