独特の西洋式の縄張をした五稜郭の内部には、日本の伝統建築による箱館奉行所が建っていた。箱館奉行所は、北辺の防備と蝦夷地経営のために、箱飴山麓に元治元年(1864)から工事が始められた。庁舎建物の屋根うえには望楼としての太鼓櫓を載せ、町役人詰所、御用達詰所、白洲、同心組頭などさまざまな部屋から構成されていた。
五稜郭タワー |
武田斐三郎像 |
2006年4月1日にオープンした新タワーは高さ107m、眼下に見える特別史跡五稜郭の星形の眺望が素晴らしい。展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしている。
武田斐三郎は諸術調所教授方だった蘭学者武田斐三郎が、フランス築城法のオランダ語訳をもとに五稜郭の設計を行った、日本で最初の洋式星形城郭である。10万4000余両の工費をかけ、全国から4000人以上の石工・人夫を動員、安政4年(1857)から完成までに足かけ7年をこえる歳月を要した。元治元年(1864)には箱館奉行所も移転した。すべての工事が終了したのは慶応2年(1866)であったが、それからわずか2年で江戸幕府は崩壊してしまった。
土方歳三像 |
榎本武揚像 |
土方歳三は榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ渡り、五稜郭を占領。榎本を総裁とける蝦夷共和国が成立し、陸軍奉行並に就いた土方は、新政府軍の進撃に徹底防戦で凌ぐ。しかし翌明治2年(1869)函館総攻撃を開始した新政府軍に対し、先頭に立って馬上で指揮をとっている最中、銃弾に腹を貫かれ、土方は絶命した。部隊は総崩れとなり、その6日後、旧幕府軍は降伏した。35歳。
展望台 |
五稜郭の桜 |
堀のほとりや郭内に咲く桜が星形の稜郭を埋め尽くす。
跳出石垣 |
見障土塁 |
敵方が容易に石垣を登れないよう、石垣の最上部を一石外に飛び出させたもので、「忍返」の一形態である。幕末頃に盛んに採用され、西洋式城郭や台場で多用された。和式城郭では、人吉城にのみ採用されている。
一文字土居とも呼ばれ、虎口内側すべてに配されていた。城外から内部の様子を隠すこと、敵方が大挙して突入してくることを防ぐ目的があった。いずれも長さ約44×幅14m、高さは4.6mで、正面及び左右に石垣が採用され裏側は土である。
裏門橋 |
満開の桜 |
明治2年(1869)の箱館戦争の際に損傷した奉行所庁舎は、その2年後には明治政府により解体された。五稜郭は昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定され、その後、発掘調査や古文書・絵図・古写真の調査成果により建物外観の詳細な設計が行われ、2010年に当時と同じ場所に復元された。復元されたのは、奉行所の主要なエリアとなる庁舎全体の3分の1の範囲で、玄関や大広間、表座敷、役人の執務室などの主要な部分である。残りの3分の2については地面に部屋割りを区画して表示している。