埼玉古墳群
(さきたま史跡の博物館)

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稲荷山古墳
稲荷山古墳(国史跡)

 埼玉古墳群は県名発祥の地、行田市大字埼玉にあり、5世紀後半から7世紀はじめころまでにつくられた9基の大型古墳が群生している。稲荷山古墳復円部には、粘土槨と礫槨が原位置に復元されている。墳丘にのぼって2つの位置をみると、それらが墳丘中軸線からはずれること、検出位置が浅いことなどから別の埋葬施設が存在するようであり、稲荷山古墳はその被葬者のためにつくられた可能性が高い。金錯銘鉄剣とともに礫槨に埋葬された人物が、銘文に記された「平獲居臣(ヲワケの臣)」本人かどうか、この点とかかわるだろう。471年に製作されたとみられる鉄剣と、それに伴う遣物は、博物館に展示されている。

埋葬施設
埋葬施設(礫槨)

 昭和43年(1968)の発掘調査で、後円分の頂上から二つの埋葬施設を発見した。一つは素堀りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨。もう一つは、船形に掘った竪穴に川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫槨である。礫槨からは、金錯銘鉄剣をはじめとする豊富な副葬品が出土した。

丸墓山古墳
丸墓山古墳
将軍山古墳
将軍山古墳

 丸墓山古墳は直径105mあり円墳では日本最大である。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く約19mある。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もある。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されている。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていない。
 将軍山古墳は石室が復元され、遣物のレプリカを展示する施設が設けられている。埼玉古墳群で横穴式石室が確認されているのはこれだけである。石材には、千葉県から運ばれたものもある。

石田堤
石田堤
二子山古墳
二子山古墳

 石田堤の一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部である。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を流水させたと言われている。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られた。
 二子山古墳は全長138mの前方後円墳で。かって「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳である。周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造り出しと呼ばれる張出しがある。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたる。内堀は、今は水堀になっているが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられる。

愛宕山古墳
愛宕山古墳
はにわの館
はにわの館

 愛宕山古墳は全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳である。最小ではあるが田の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認された。

旧遠藤家住宅
旧遠藤家住宅
埼玉県名発祥之碑
埼玉県名発祥之碑

 旧遠藤家住宅は県東南部の幸手市千家にあった大きな稲作農家で、江戸時代の終わりころに建てられたものである。
 埼玉県名発祥之碑は明治4年(1871)11月14日, 現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後, 幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは, 当初の県の管轄区域の中で, 最も広いのが, 埼玉郡であったことによる。

さきたま史跡の博物館
さきたま史跡の博物館
金錯銘鉄剣
金錯銘鉄剣
(国宝)

 展示室では稲荷山古墳の主体部からの出土品を中心に公開する。被葬者とともに副葬品されていた辛亥年(471)名を刻む国宝の金錯銘鉄剣をはじめ、鏡などの装身具・武具・馬具・工具などの指定品を列品されている。
 鉄剣に刻まれた115文字は「(わたくし)ヲワケの先祖は、代々杖刀人首(親衛隊長)を努めてきた。わたくしはワカタケル大王(雄路天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した。そこで辛亥の年(471)7月に、このすばらしい刀剣にこれまでの輝かしい功績を刻んで記念とする」と記されている。この銘文は、我が国古代国家の成立を読み解く、貴重な手がかりとなっている。

円筒埴輪
円筒埴輪
農夫埴輪
農夫埴輪

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