高知市内歴史散歩

高知城~高知市内歴史散歩~椙本神社
mark板垣退助先生誕生之地(いたがきたいすけせんせいたんじょうのち)
板垣退助先生誕生之地
板垣退助先生誕生之地
高野寺(真言宗)
高野寺(真言宗)

 高知市大橋通電停から天神橋通商店街を南進し、信号のある2つ目の角を左折して20m、左手の高野寺(真言宗)の門の脇に「板垣退助先生誕生之地」の石碑がたつ。板垣は上土乾栄六の長子としてこの地に出生。吉田東洋こ抜擢されてしだいに頭角をあらわし、おもに藩の軍事面で実力をたくわえた。

mark後藤象二郎先生誕生之地(ごとうしょうじろうせんせいたんじょうのち)
大政奉還コース
大政奉還コース
後藤象二郎先生誕生之地
後藤象二郎先生誕生之地

 大橋通りから、板垣退助先生誕生之地・旧山内家下屋敷長屋・山内神社・龍馬の生まれたまち記念館の散歩コースを歩く。
 板垣誕生地から天神橋通り商店街に戻って南へ150mほどいくと、天神橋手前左手の土佐教会前に後藤象二郎誕生地の碑がある。象二郎は馬廻格150石の家に生まれ、1歳違いの板垣とは竹馬の友であった。幕末の参政吉田東洋は義理の叔父にあたり、東洋の下で学び抜擢され幡多郡奉行などをつとめた。東洋暗殺事件後は一時失脚するが、文久3年(1863)山内容堂が藩政の実権を握るとともに復帰。大監察として土佐勤王党の処断に辣腕をふるった。慶応2年(1866)開成館奉行として長崎に赴き、同地で活発な商業活動を行い、上海にも渡って見聞を広めた。坂本龍馬とも接触し、龍馬の「船中八策」をうけいれて容堂に進言、慶応3年(1867)の大政奉還の立役者となった。維新後は基本的に板垣と行動をともにし、民権運動にもかかわった。

mark天神大橋(てんじんおおはし)
天神大橋
天神大橋
鏡川
鏡川

 江戸時代、鏡川に架設された、城下町付近での唯一の橋で、俗に大橋といわれ、江戸時代中期の「土佐州郡志」によると、長さ76間、幅2間という城下最大の橋だった。元和8年(1622)に藩主が、真如寺などへ参詣するために本格的に架設したのでは当初は真如寺橋と称し、以降20年ごとに改修するのを慣例としていた。18世紀中ごろには天神橋と改称されている。
 維新以降は、民間の力で保存・管理されていたが、明治33年(1900)4月、下流に潮江橋が架設されると仮橋に架け換えられ、大正14年(1925)5月には、コンクリート橋が架けられた。その後、昭和33年(1958)3月に幅を2倍余りの10mに広げ天神大橋と改めた。現在の橋は、昭和61年(1986)6月、長さ145m、幅14.5mの近代的な橋として完成した。

mark旧山内家下屋敷長屋(きゅうやまうちけしもやしきながや)
旧山内家下屋敷長屋
旧山内家下屋敷長屋
(国重要文化財)
下屋敷長屋展示館
下屋敷長屋展示館

 鷹匠公園と道路をはさんだ東側には、現在、三翠園ホテルがあるが、このホテルの門に連なる長屋が、慶応元年(1865)建築の旧山内家下屋敷長屋である。元治元年(1864)から翌年にかけて、郭中南詰めにあたるこの地に、十六代藩主山内豊範の別邸散田邸がつくられた。

mark山内神社(やまうちじんじゃ)
別格官幣社 山内神社
別格官幣社 山内神社
西神門
西神門

 別格官幣社は、人間が神として祀られた神社に限られた。祭神には楠木正成に南朝の功臣、織田信長豊臣秀吉徳川家康に戦国の世を統一していった戦国大名、明治維新に功績があった諸藩の大名などがある。この制度が廃止となる昭和21年(1946)には28社がある。

社殿
社殿
十五代藩主山内豊信(容堂)像
十五代藩主山内豊信(容堂)像

 山内神社は、三代忠豊から十四代豊惇までの歴代藩主を祀るため、明治4年(1871)3月、最後の藩主十六代豊範によって創建された。その後昭和9年(1934)、十五代藩主豊信(容堂)と十六代豊範を祀る別格官幣社として神社殿が造成された(三代から十四代までの歴代藩主は藤並神社に遷座)が、第二次大戦で焼失してしまった。現在建つこの社殿は、昭和45年(1970)に再建されたものである。同時に、祭神も容堂・豊範に加えて、同じく戦災で焼失した藤並神社に祀られていた初代藩主山内一豊とその妻見性院、二代藩主忠義のほか、歴代藩主も山内神社に合祀された。

mark馬場辰猪先生誕之地(ばばたついせんせいたんじょうのち)
近衛兵之碑
近衛兵之碑
馬場辰猪先生誕之地
馬場辰猪先生誕之地

 馬場辰猪は17歳のとき、藩校致道館での成績が評価され、蒸気機関学修業を命じられて江戸にいき、英学を学ぶため福沢諭吉に入門。一時、長崎のオランダ人宣教師フルベッキにも学んだが、明治2年(1869)正月には慶応義塾と改称した福沢の塾の教師となった。翌年、高知藩留学生5人のうちに選ばれ、英国へ留学。留学中、片岡健吉・中江兆民・小野梓らと日本人留学生を組織した日本学生会をつくった。英国留学は、一時帰国をはさんで都合2度にわたった。明治11年(1878)に帰国後は、しだいに自由民権運動にかかわるようになり、やがて自由党の常議員となり、演説や機関紙『自由新聞』で自由民権の論理を展開する。明治16年(1883)9月、板垣の洋行に反対して自由党を離党。その後、明治18年(1885)には横浜の英人商館で爆発物の買い入れ手続きなどを問い合わせたことにより逮捕され、約6カ月間投獄される。無罪釈放ののち、渡米。家伝の武具甲胃を身に着けて米国人聴衆を集め、日本の藩閥政治打倒への協力を訴えるなどした。米国フィラデルフィアの大学病院で肺疾患のため死去。

mark高知市立龍馬の生まれたまち記念館(こうちしりつりょうまのうまれたまちきねんかん)
坂本龍馬先生誕生地
坂本龍馬先生誕生地
高知市立龍馬の生まれたまち記念館
高知市立龍馬の生まれたまち記念館

 高知市升形電停から西へ50m、南側の病院前に坂本龍馬誕生地の碑がある。坂本家の先祖は明智光秀の一族で、落人として土佐へきたと伝えられる。江戸時代初期には長岡郡才谷(現、南国市)の百姓であったが、17世紀なかばごろに城下にでて商人となり、才谷屋を屋号とした。

坂本乙女と龍馬像
坂本乙女と龍馬像
近藤長次朗像
近藤長次朗像

 乙女は坂本龍馬の姉。天保3年(1832)1月1日に生まれる。母・幸が弘化3年(1846)に死去した後、龍馬を教育したと伝わる。剣術と長刀、三味線や舞踊など、文武において高い能力を持っていたようだ。身長は5尺8寸(約176m)、体重は30貫(約112kg)もあり、「坂本のお仁王さん」と呼ばれていたという。
 近藤長次郎は坂本龍馬らとともに活躍した幕末の志士で、生家は大里屋の屋号で餅菓子づくりを営んでおり、そのことから「饅頭屋長次郎」ともよばれる。早くから学問に親しみ、河田小龍に師事した。またこのころ、南奉公人町(現、高知市)にいた甲藤市三郎や、神田村にいた岩崎弥太郎らにも学んでいる。

離れ
離れ
館内の展示
館内の展示

 龍馬の生まれたまち記念館は南国土佐、高知市は幕末の英雄坂本龍馬が生まれた地として全国に知られている。世界や国家の変革期にあって、その困難を乗り越えた龍馬という人材が、なぜここに育ち世に出たのかを紹介し、龍馬を中心とした歴史・文化の推進とコミュニティ育成のまちづくりを目指して、龍馬の生まれたまち記念館が建設された。
 この部屋は坂本家の「離れ」をイメージしており、亀岩・坂本家の欅の衝立や土佐の皿鉢などを展示している。

館内の展示
館内の展示
一弦琴
一弦琴

 一弦琴の歴史は、歴史と伝説の入りまじった伝え話によると、平安時代に歌人在原行平が兵庫の須磨に左遷された時、浜辺に打ち上げられた舟板の一枚をひろって小屋に持ち帰り、冠の紐を取り付け、それを琴にして弾いたというこである。土佐の一弦琴は、幕末に京都土佐藩邸に勤務していた門田宇平が一弦琴を習い、持ち帰ったことに始まる。

はりまや橋
はりまや橋

 かつては橋下を流れた堀川も埋め立てられ、ほとんど橋の面影はない。藩政初期、堀をはさんで住んでいた御用商人の播磨屋宗徳と櫃屋道清が、両家を往来するために設けた私設の仮橋が、はりまや橋の最初といわれる。やがて公橋となり、橋幅も拡張、幕末のころには夜店がでるなど賑わうようになった。現在、橋の下の東西の連絡路となっている地下道には、はりまや橋や高知市の歴史を紹介するパネル展示などがある。