清水寺
(三重塔・本堂・音羽の滝)

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仁王門
仁王門(国重要文化財)

 東山三十六峰の南部中央、音羽山中腹の標高100~120mに位置し、墳内地は13万㎡の広さを誇る。本尊は清水寺独特の十一両千手観音立像で、西国三十三所観音霊場の16番札所、洛陽三十三所観音霊場の12番札所である。明治時代初頭まで法相宗に真言宗を兼学していたが、昭和40年(1965)、奈良の法相宗から独立して、北法相宗の大本山となった。なお、本尊は秘仏とされており、開扉は原則として33年ごととなっている。近年は平成21年(2009)に行われた。
 正面の高い石段上に立つ室町時代後期再建の楼門(高さ14m)で、朱色が鮮やかで「赤門」ともよばれている。正面石段の下左右には、「阿咋」ならぬ「阿阿」の石造狛犬がいる。
西門
西門(国重要文化財)
基準点標石
基準点標石
 西門は大正3年(1914)の修理のおり、桂根に墨書がみつかり、再建された時期が明らかとなった。平成3-6年(1991-94)の修理で、彩色の全面復元がなされた。なお、この西門下に並ぶ石灯寵のうち、1対は、将軍徳川家光の寄進である。
 基準点標石は、明治8年(1875)内務省地理寮(後に地理局)により、英国の測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために、設置された基準点である。地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準となっている。
三重塔
三重塔(国重要文化財)
出世大黒天
出世大黒天
三重塔は寛永9年(1632)に再建されたもので、昭和62年(1987)の解体修理において彩色復元された。高さ30.1m、初層中央の須弥壇に真言密教の本尊大日如来坐像をまつっている。創建は、承和14年(847)と伝える。なお、「清水寺参詣曼茶羅」には、現在の塔の前身にあたる朱塗りの塔をみることができる。
本堂
本堂
(国宝)
 東福門院(徳川家光の妹で後水尾天皇中宮)の発願、家光の寄進により再建された。本堂のもっとも奥、内々陣中央に安置されている厨子3基は、江戸時代初期を代表するもので、中央の厨子に本尊木造十一両観音立像を、左右の厨子に地蔵菩薩立像と毘沙門天立像を安置する。本堂外陣の欄間を中心に、江戸時代の扁額式大型絵馬が28点かけられている。なかでも海北友雪筆「坂上田村麻呂東征奮戦の図」絵馬は、縦約3m・横約10mと日本最大級のものである。
清水の舞台
清水の舞台
 桁行6間・梁間3間の本堂の付属建築物で、崖縁に長い柱を立てて内陣から張り出す床を支える構造となっている。明治時代以降、本堂の修理は数回行われているが、舞台の柱組は寛永10年(1633)のままである。創建時期は平安時代の日記から、12世紀の初めまで遡ることは確かで、それ以前は記録がなくわかっていない。
清水の舞台より
清水の舞台より
音羽の滝
音羽の滝
 清水寺の創建を物語る縁起は複数あるが、奈良時代末期の宝亀9年(778)、大和国(現、奈良県)子島寺(観音寺)の僧延鎮が音羽山中の滝にて白衣の居士行叡と出会い、開山に至ったと伝える。延鎮は、行叡の遺命をもとに霊木に千手観音像を刻み、旧庵に安置して寺の起こりとなした。その後、妻の療治にシカの血を求めて音羽山を訪れた坂上田村麻呂が、780年延鎮と出会い、その説諭で妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進した。田村麻呂は延鎮と合力して、延暦17年(798)、十一両観音菩薩、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天の立像を安置し805年寺地を賜る官符を得た。寺号は観音寺に対して北観音寺としたが、音羽の滝にちなんだ清水寺の名称が一般化する。
二寧坂(二年坂)の賑わい
二寧坂(二年坂)の賑わい
二寧坂(二年坂)の賑わい
二寧坂(二年坂)の賑わい
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