地元産の御影石を使って二の丸の東北隅に建てられた大手門。本来の岡崎城大手門はここではなく、二の丸の北東約200mにあり、桁行(幅)10間(約18m)、梁行(奥行)2間4尺(約5m)の堂々たる門だった。
からくり時計塔は、定刻になると時計盤三面がはねあがり、能装束の家康公が登場。趣向を凝らした時計塔である。
「伊勢桑名藩初代藩主本多忠勝(通称平八郎)は、天文17年(1548)岡崎に生まれた。本多氏は、早くから松平本家譜代家臣団として一族をあげてつかえてきた。13歳で初陣した忠勝は、つねに家康のもとにあって、徳川四天王(本多忠勝のほかに酒井忠次、榊原康政、井伊直政)の1人として家康をささえて奮戦した。とくに槍は抜群で、生涯57度の合戦で傷をおうことがなかったと伝えられている。天正18年(1590)に上総大多喜城主となり、慶長15年(1610)に亡くなったが、その子孫は代々大名となり、明和6年(1769)以降は岡崎城主となって明治に至っている。」(※)
家康館では、家康公の出生から天下統一までと、それを支えた三河武士達を、常設展で5つのコーナーに分けて解説されている。
「岡崎城は、明大寺に屋敷を構えていた三河守護代西郷頼嗣が、康正元年(1455)、北方への備えから乙川の北側に砦を築いたことが始まりと考えられている。その後、安祥城(現、安城市安城町)を居城としていた家康の祖父松平清廉が、当地岡崎に勢力をもっていた大草松平氏の松平(西郷)信貞を屈服させて移り、享禄3年(1530)ごろに本格的な築城を行ったとされる。」(※)
天文11年(1542)12月26日、幼名竹千代のちの家康は岡崎城の二の丸で誕生した。それで二の丸は俗に誕生曲輪と呼ばれた。家康出生時に産湯に使う水をくんだと伝えられる。
この城で生まれた家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした。
「元利3年(1617)に二代藩主本多康紀によって建てられたもので、3層3階地下1階の複合天守閣であったというが、明治6~74年(1873~1874)に取りこわされた。現在のものは、昭和34年(1959)に復元されたもので、歴史資料館になっており、1階が受付、2階から4階で歴史資料などを展示し、最上階は展望台である。」(※)
明治9年(1876)、城内にあった東照宮と映世神社が合祀されて現地にたてられたものである。東照宮の創建は明らかでなく、当初本丸にあったが、明和7年(1770)に三の丸に移された。このとき忠勝をまつる映世神社が本丸にたてられている。なお、現在の社殿は昭和39年(1964)に再建されたものである。
「徳川家康は天文11年(1542)12月26日、岡崎公園二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転機を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以降持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤を作り、元和2年(1616)4月17日75才で4この世を去った。この像は昭和40年(1965)家康公350年祭を記念して建てたものである。」(※)
巽閣は各種集会や教室・会議等で利用されている。
清海掘は創築者西郷頼嗣(清海入道)の名から清海堀と呼ばれている。本丸北防衛のために設けられた。