長浜は豊臣秀吉公の城下町。近隣の商工業の中心地から商人や職人が集められ、幾つかの寺院も移されて町場を形成した。
「長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。」(※)
石田三成は天正11年(1583)、織田家を二分して柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いにおいては一番槍の功名をあげ、さらには情報収集と工作活動でも活躍した。いつしか三成は、秀吉の天下統一事業には欠かすことのない武将となった。
豊臣秀吉は、天正元年(1573)の小谷城の戦いで戦功を上げ、浅井氏旧領の北近江3郡を与えられた。当初小谷城に入った秀吉だが、山城のため領国統治に不向きだとして、今浜と呼ばれる地に新たな居城を築城した。のちに今浜を「長浜」と改め、自身も木下姓から羽柴姓を名乗るようになった。
石碑が建つ位置は、長浜城の天守閣があったといわれる所で、天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間X南北10間である。
村上義一像は長浜市出身、日本通運や近畿日本鉄道の社長、運輸大臣を務めた実業家・政治家である。
長浜城跡は、江戸時代には荒れ地になっていたが、明治時代後期から整備された。豊臣秀吉にちなんで豊公園と名づけられ、長浜町民や市民の憩いの場となっており、春はサクラが美しい。
鳥喜多の親子丼は、代々親から受け継いできた味を守り続けている。
旧開知学校は、明治4年(1871)に開校された県下初の小学校である。
中山道鳥居本宿を起点とし、近江と北陸を結ぶ重要な街道で、商家や旅籠、町役人衆の豪邸が軒をつらね、大名行列や、文人墨客が往来した。
黒壁ガラス館の前身は明治33年(1900)に建てられた旧百三十銀行長浜支店。平成元年(1989)に市と民間により、ガラス館としてよみがえった。
慶長元年(1596)に長浜城内に営まれた講の会所がのちに大通寺と号したが、その後、彦根藩二代藩主井伊直孝より寺地の寄進を受け、慶安2年(1649)に現在地に移った。山門は上層部、下層部のある二重門で左右に山廊と築地塀を付属する。文化5年(1808)に建築が始まり、同9年(1812)にはほぼ上棟していたとみられる。
東本願寺から伏見城の遺構を移して伽藍が整えられたと伝えられている。
大広間玄関は正面奥に書院造りの要素である床、帳台構、違棚及び付書院などを一直線上に並べた上段の間をかまえ、対面所としての風格を備えている。