増上寺(徳川将軍家霊廟)~愛宕神社
(大門~新橋)

大門駅(都営浅草線)~増上寺(徳川将軍家霊廟)~愛宕神社~栄閑院~烏森神社~新橋駅(JR山手線)
mark徳川将軍家墓所(とくがわしょうぐんけぼしょ)
大門
大門
幼少の法然さま像
幼少の法然さま像

 増上寺の総門である大門は、昭和12年(1937)に作られたコンクリート造である。

三解脱門
三解脱門(国重要文化財)
徳川将軍家墓所門
徳川将軍家墓所門

 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、和唐折衷の美しさを見せている。上層部(楼上)には、中央部に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されている。
 現在の徳川将軍家墓所門は、元六代将軍徳川家宣(文昭院)宝塔前中門である。
 特別公開中に拝観すると、「大日本東京芝三縁山増上寺境内全図、絵葉書(旧霊廟写真葉書11枚」と「お江~崇源院様~」の記念品が貰える。

徳川将軍家墓所
徳川将軍家墓所

 増上寺には、二代将軍徳川秀忠をはじめとして6人の将軍、崇源院、皇女和宮ら5人の正室、三代将軍徳川家光側室桂昌院(五代将軍徳川綱吉実母)をはじめ5人の側室、及び家光第三子甲府宰綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。み霊を祀る為に造営された墓所・本殿・拝殿を中心とした施設の数々はその当時の最高の技術が駆使され、厳粛かつ壮麗な霊廟はいずれも戦後国宝に指定されていたが、昭和20年3月10日北廟被災、5月25日南廟被災、二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除された。
 焼失した御霊屋群はしばらくのあいだ荒廃にまかされていたが、昭和33年(1958)から文化財保護委員会の許可を得て詳細なる学術調査が行われ、のち桐ヶ谷斎場にて荼毘に付され、南北に配していた墓所は1か所にまとめられ現在の徳川将軍家墓所に改葬された。

二代秀忠公・お江夫妻の墓所
二代秀忠公・お江夫妻の墓所

 二代将軍徳川秀忠は、徳川家康の三男として誕生。真面目な秀忠は大御所となった家康の後見を受けて武家諸法や禁中並公家諸法度を整備、幕府支配体制の基礎固めた。豊臣秀吉の斡旋で、お市の方(織田信長の妹)の娘・お江(於江与)と再婚。秀忠は側室を持たなかったが、織田の血を将軍家に残そうと必死だったお江の嫉妬心逆なでしないためであった。
 お江は、戦乱の世が続く天正元年(1573)、近江国小谷城主・浅井長政と、信長の妹・お市の方の三女として生まれた。長女は茶々(のちの淀姫)、次女は初、有名な「浅井三姉妹」の末っ子である。

六代家宣公の墓所
六代家宣公の墓所
七代家継公の墓所
七代家継公の墓所

 六代家宣は、家光の三男綱重を父として寛文2年(1662)に出生。宝永6年(1709)将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治り刷新をはかり、生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治をなしとげたが、在職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)51歳の生涯を閉じた。
 七代家継は、家宣の第3子として宝永6年(1709)出生。父の薨去、兄二人の早世でわずが3歳にして七代将軍職を継ぐ。正徳5年(1715)皇女八十宮と結婚するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6年(1716)薨去。

九代家重公の墓所
九代家重公の墓所
十二代家慶公の墓所
十二代家慶公の墓所

 九代家重は、正徳元年(1711)吉宗の長子として出生。生まれつき多病になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより言語も不明瞭であったようだ。しかし復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。
 十二代家慶は、家斉の第2子として寛政5年(1793)に生まれる。天保の改革に着手するも成果なく、幕府は没落の道を歩むこととなる。嘉永6年(1853)、あわただしい世情の中の薨去。

十四代家茂公の墓所
十四代家茂公の墓所
和宮の墓所
和宮の墓所

 十四代家茂は、家斉の養子、斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれる。安政5年将軍の養子となり十四代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院宮)を正室に迎えた。
和宮親子内親王は、家茂正室、兄孝明天皇即位の年、仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)出生。嘉永4年6歳の折、有栖川宮熾仁親王と婚約。しかし婚儀間近になって公武合体制によって徳川家に降嫁。時に15歳。家茂没後、落飾して静寛院宮と称し、波乱万丈変転激しい時代のなか、江戸無血開城、徳川家存続、夫君追善に力尽くすも、明治10年(1877)31歳という短い生涯を閉じた。

将軍生母側室等の墓所
将軍生母側室等の墓所
徳川将軍墓所特別公開中
徳川将軍墓所特別公開中

 現在の合祀塔には、家光第3子で家宣の実父である徳川綱重をはじめ、家光側室で綱吉の生母桂昌院、家斉正室廣大院、家宣側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の婦人や子女の多数が埋葬されている。なお、宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られていた宝塔である。

徳川家継(有章院)霊廟二天門
徳川家継(有章院)霊廟二天門
御成門
御成門

 東京プリンスホテル入口右側に、徳川家継(有章院)霊廟二天門(国重要文化財)が残っている。
 御成門は増上寺の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられていたので、「御成門」と呼ばれるようになった。はじめ「 御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て 芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。

mark愛宕神社(あたごじんじゃ)
出世の石段
出世の石段
愛宕神社
愛宕神社

  海抜26mにある愛宕神社に上がる86段の急峻な石段は、「出世の石段」と呼ばれている。
 徳川家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年(1603)、愛宕山に愛宕神社を創建した。祭神は火の神(火産霊命)・水の神(罔象女命)・山の神(大山祇命)などで、火伏せの神として広く信仰されている。

古いダルマ
古いダルマ
古いお札
古いお札

七草火焚き祭り
七草火焚き祭り

 七草火焚き祭りは、毎年1月7日に1年お守りいただいた お札や ダルマをお焚き上げしその火に当たって無病息災を願う行事で、参列者には七草粥のお振る舞いがある。

火焚き神事
火焚き神事
火焚き神事
火焚き神事

NHK放送博物館(愛宕山)
NHK放送博物館(愛宕山)
展示フロア
展示フロア

 愛宕山は、明治30年に出た 『新撰東京名所図会』では、上野も湯島も山王も九段も、ここにはおよばない、東京第一の眺めだろうと書いているが、せっかくの高さがとくに近年の高度成長以後、ビルの谷間に沈没しているような状態だ。愛宕神社の南側に、ラジオ放送開始30周年を記念して、昭和31年(1956)に開館した NHK放送博物館がある。この地は大正14年(1925)に本放送を開始したJOAK愛宕山放送局跡で、ラジオからテレビ放送に至る歴史を示す放送機器・放送原稿・文献などが展示されている。

岩原謙三像
岩原謙三像
受信契約第1号テレビ
受信契約第1号テレビ

 岩原謙三は石川県生まれ。三井物産ロンドン支店長、ニューヨーク支店長を経て、明治41年(1908)常務。この間、芝浦製作所社長など歴任。社団法人東京放送局初代理事長として、全国放送網の計画をまとめ推進する。大正15年(1926)8月6日、日本放送協会初代会長に就任した。

mark栄閑院(えいかんいん)
栄閑院
栄閑院
本堂左手の猿
本堂左手の猿

 愛宕神社とNHK放送博物館のあいだにある細い階段を下り、桜田通りの手前を右折すると右側に栄閑院がある。墓地には、杉田玄白の墓がある。 栄閑院は「猿寺」といい猿の像を門柱におくのは寛永(1624~44)のころ猿回しの泥棒が住職に改心させられ、猿を寺に残して諸国行脚に出たあと、猿が人にかわいがられたからという。

杉田玄白の墓
杉田玄白の墓
本堂右手の猿
本堂右手の猿

 杉田玄白は、解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手した。しかし、 玄白はオランダ語が全くできなかったため、一緒に腑分けを見ていた前野良沢の語学力を頼りにして、翻訳作業を進めた。翻訳作業開始から3年半、安永3年(1774)に『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』は、白の名を一躍高めることになる。その後、 玄白は浜町で開業。高名な 玄白に診療してもらおうとたくさんの患者が訪れ、年に1000人余りを診療する繁昌ぶりをみせた。

烏森神社
烏森神社
C11292と日本テレビタワー
C11292と日本テレビタワー

 烏森神社の社歴は古く、平安中期の平将門の乱に際して、征討将軍藤原秀郷が戦勝を祈願したと伝えられている。明治以降は5月4・5・6日を祭日とし、夏祭りのはしりとしてその名をうたわれている。
 C11 292号は昭和20年(1945)2月11日、日本車輌株式会社で誕生した。3年間余りの戦争で物資もなくなりつつあった頃の誕生である。鉄道100年を記念して、新橋のSL広場に設置された。

乙女と盲導犬の像
乙女と盲導犬の像
愛の像と泉
愛の像と泉

 乙女と盲導犬の像は、昭和44年(1969)に東京虎ノ門ライオンズクラブにより建立された。この像を出発点として日本で初めての盲導犬パレードや募金活動が行われ、盲導犬への理解が広がる拠点となった。
 愛の像と泉は、東京新橋ライオンズクラブより平和を願い、20周年記念事業として昭和51年(1976)に寄贈された像である。

mark新橋駅(しんばしえき)
新橋駅
新橋駅

 「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」明治5年(1872)、新橋・ 横浜間にわが国最初の鉄道が開通した。現在の新橋駅は大正3年(1914)に京浜線が開通したときの烏森駅で、当時の新橋駅は東側、東京湾よりにあった。

蒸気機関車C58の動輪
蒸気機関車C58の動輪
鉄道唱歌の碑
鉄道唱歌の碑

 D51形機関車は昭和11年(1936)に誕生した機関車である。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍した。展示されている動輪は、昭和51年(1976)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものである。
 鉄道唱歌の碑は、昭和32年(1957)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立された。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録である。

⇒ 新橋周辺 ウォーキングマップ