散歩コース
洗足池駅(東急池上線)~洗足池~洗足池駅(東急池上線)洗足池は昭和3年(1928)に東急池上線が開通すると、公園として整備され、 同5年には風致地区として指定された。 面積は、周辺を含めると約67,000㎡、水面の広さは約40,000㎡である。
武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、 昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました。 池畔の風景は優れ、江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていた。
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
「治承4年(1180)8月 源頼朝、相州石橋山の戦いに敗れて安房に逃げこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次ここ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりである。」(※)
貞観2年(860)に宇佐八幡宮が勧請された千束郷の鎮守である。初代将軍源頼朝所有の名馬として知られる「池月」の発祥伝説も残され、「旗挙げ八幡」と呼ばれている。
清水窪弁財天創建の年代は、不詳なれど、古来より 洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。
「明治維新の英傑、西郷隆盛と勝海舟は、大政奉還の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名である。海舟は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、隆盛と日本の将来について歓談されたと伝えられる。隆盛はその後、明治10年(1877)の西南戦没により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されたが、これを惜しまれた海舟は、追慕のため 隆盛の漢詩を建碑され、さらに明治16年(1883)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立した。」(※)
「勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任は、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。」(※)
弘安5年(1282年)9月、日蓮上人が身延山(山梨県)から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千足池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる、この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することになり、また千足池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830~1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝4面におおい長さ幹囲み合がかり、高さ5丈あり」あったと記されている。なお現在ある松は三代目であると伝えられる。
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洗足池駅(東急池上線)~洗足池~洗足池駅(東急池上線)