善福寺公園~井草八幡宮~荻窪八幡宮
(西荻窪~荻窪)

西荻窪駅(JR中央線)~善福寺公園~善福寺~井草八幡宮~荻窪八幡宮~荻窪駅(JR中央線)
mark善福寺公園(ぜんぷくじこうえん)
善福寺公園 上の池
善福寺公園 上の池

 善福寺川の水源、 善福寺池を中心とする都立公園である(面積7万8600余㎡)。善福寺池は井の頭池・妙正寺池・三宝寺池などとともに武蔵野の代表的な湧水池の一つである。最近は湧水量の減少のため地下水の汲上げに頼っている。

善福寺池
善福寺池
白鷺
白鷺

市杵島神社
市杵島神社
遅野井
遅野井

 善福寺公園の水源に近く、地中に小島がある。そこに井草八幡宮が管理している 市杵島神社が鎮座されている。樹木生い繁り神さびた眺めである。手前の岸との間に石造の太鼓橋が架けられていたが、現在は井草八幡宮の境内に移設されている。参道は西南に通じ、数十段の石段があり、公道に面して木造の鳥居がある。祭神は市杵島姫命で、もと善福寺弁財天といった。御神体は石造の神像で、例祭日は四月八日である。昭和の初期までほ善福寺池の周囲はうっそうたる杉林で、水量豊かに下流の水田をうるおしていた。
 遅野井は村の伝承であるが、むかし、源頼朝が奥州藤原氏征伐の時、このあたりで軍勢が水に渇えた際、頼朝が神明に念じて、弓をもってこの地を掘ったところ、霊水が湧き出たという。それがこの他の起源伝説になっている。しかもその水の出が遅かったので、遅野井と名付けたという。もちろん、この他は太古からの湧水であるが、遅野井という地名に頼朝を託したことは面白い。この滝は、往時の涌水の湧き出し口遅野井を滝の形で復元したものである。

紅葉
紅葉

下の池
下の池

2006.1.21 雪の善福寺公園youtube
mark善福寺(ぜんぷくじ)
本堂
本堂
山門
山門

 本尊は阿弥陀如来像で室町期のものと伝える。もと無量山福寿庵と称する浄土系の寺院が、かつて 善福寺池畔にあった善福寺(廃寺)にちなんで、今の称に改めた。現在の本堂は、昭和40年(1965)の再建で、白壁の明るい堂である。春には境内の桜が美しい。

mark井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)
大鳥居(東参道)
大鳥居(東参道)
境内
境内

 大鳥居のある東参道は200m余もあり、5年ごとに行なわれる流鏑馬神事の馬場ともなる。
 境内は、 南面して神門廻廊を廻らした荘麗な 拝殿・幣殿・渡殿・本殿などが棟を連らねており、それらは松・槍・樺・樟・椎など数々の樹木に園まれ、別天地の観がある。境内地付近から数千年以前の住居址も発見されており、特に早期縄文式土器が出土して、井草式土器の名称は広く知られている。おそらく、太古から景勝の地であったのであろう。

大灯籠
大灯籠
頼朝公御手植の松
頼朝公御手植の松

 大灯籠は昭和42年(1967)、別表神社に列せられたのを記念にして造られた。高さは約9mで、屋根は銅板葺きで八畳分の広さがある。
 頼朝公御手植の松は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)、源頼朝は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、 井草八幡宮に戦勝祈願に立ち寄った。その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、その報賽として建久4年(1193)、社頭に雌雄二本の松を自らの手で植え奉納した。雌松(赤松)は明治時代に枯れてしまったが、雄松(黒松)は約800年の間、井草地域の漂徴として仰ぎ見られていた。現在の松はその大松の末流にあたり、二代目御手植の松として大事に育てられている。

楼門
楼門

 両参道が合する道の奥に二層の 楼門が建つ。その楼門をくぐると、手水舎・神楽殿・招神殿などのほか、文華殿(鉄筋コンクリート造の宝物館)がある。

拝殿
拝殿

 旧上下井草村の鎮守であると同時に、戦前の官国幣社に準ずる別表神社で、祭神は八幡大神である。この地域一帯はまた遅野井とも称され、明治時代まで遅野井八幡宮とも呼ばれていた。

mark荻窪八幡神社(おぎくぼはちまんじんじゃ)
鳥居と祓門
鳥居と祓門
神門
神門

道潅槇
道潅槇
狛犬
狛犬

 関東管領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。これを激怒した上杉定政は江戸城太田道灌に出陣を命じた。文明9年(1477)4月16日、道潅軍は東及南より石神井城を攻撃するに当たって、道潅は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行い、槇一株を献植した。これが今当社に伝わる道潅槇で、一根二幹であったが、昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称せられている。

本殿
本殿

 旧上荻窪村の鎮守で、祭神は応神天皇である。社伝では、宇多天皇の寛平年間(889-97)に創祀されたという後冷泉天皇の永承6年(1051)に、源頼義が奥州東征の途次ここに宿陣し、戦勝を祈願、のち康平5年(1062)凱旋 するに当たって、社を修めたという。社の南一帯の丘地を「館」としたと伝えられ、今なおこの辺りを「城山」と称している。

⇒ 善福寺周辺 ウォーキングマップ