東京大学構内散歩(本郷キャンパス)
(本郷三丁目~根津)

本郷三丁目駅(東京メトロ丸ノ内線)~本郷キャンパス~弥生キャンパス~根津駅(東京メトロ千代田線)
本郷通り
本郷通り
見送り坂と見返り坂
見送り坂と見返り坂

 「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと……いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり……太田道灌(1432~86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。

mark東京大学本郷キャンパス(とうきょうだいがく ほんごうキャンパス)
赤門(国重要文化財)
赤門(国重要文化財)

 東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、一般に「赤門」として周知され、東大を象徴する門として今日まで親しまれている。正式には旧加賀屋敷御守殿門である。

左側番所
左側番所
右側番所
右側番所

 十一代将軍徳川家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁ぐときに前田家が文政10年(1827)に建造した。主門が三間薬医門、屋根は切妻造本瓦茸、左右脇に腰縦羽目板張り(明治以降昭和36年(1961)までは腰海鼠塀)本瓦茸の繋塀と、唐破風造屋根の「番所」がついている。

総合図書館
総合図書館
正門
正門

古市公威像
古市公威像
工1号館
工1号館

 古市公威は、安政元年(1854)、姫路藩士の子として江戸に生まれる。明治19年(1986)、帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長に就任し、日本近代の工学教育の礎を築いた。

ジョサイア・コンドル博士像
ジョサイア・コンドル博士像
法文館の通路
法文館の通路

 コンドルはロンドンに生まれ、建築学を学び、明治9年(1876)に日本政府と5年間の雇用契約を結んで、翌77年に来日した。工部大学校造家学の教師となり、最初の教え子として辰野金吾や片山東熊らを輩出した。建築教育に従事する傍ら、上野博物館、鹿鳴館、東京大学文科校舎など、本格的な西洋建築を相次いで設計した。

チャールズ・ウェスト像
チャールズ・ウェスト像
三好晋六郎像
三好晋六郎像

 ウェストはダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め1869年に卒業した。ヘンリー・ダイアーの機械工学の後任として、明治15年(1882)に来日し、機械工学とともに造船学も教えた。わが国の機械工学を未熟な状態から急速に発展させることに尽力した。
 三好晋六郎は、明治16年(1883)に造船学第一講座を担当した。明治19年(1886)に初代の日本人教授となり、後の発展の礎を築いた。明治30年(1997)、汽船神奈川丸外5隻の速力試験成績を発表、設計上有益な資料として注目された。

大講堂(安田講堂)
大講堂(安田講堂)
山川健次郎像
山川健次郎像

 山川健次郎は会津若松の山川重固の三男として生まれる。少年時代に白虎隊士を経験したのち、米国エール大学で物理学を学んだ。清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ばれた。大学が自治問題に揺れる中、2度にわたり東京帝国大学総長を務めた。2度目の在任中に自治紛争で京都帝国大学にも総長を依頼され、10ケ月にわたって東京帝国大学と京都帝国大学の総長を兼ねた。

安田講堂前の楠
安田講堂前の楠
浜尾新像
浜尾新像

 浜尾新は豊岡藩士の子とて生まれる。東京帝国大学の第三代、八代総長を務めた。

三四郎池(育徳園)
三四郎池(育徳園)

 加賀前田家の上屋敷内に築造された大名庭園「育徳園」の園池がその原形である。江戸の大名庭園ではあるが、今はわずかに「心字池」を中心とした周囲に往時を偲ぶだけである。この庭は寛永18年(1641)三代将軍徳川家光を迎えるにあたり前田利常が築造し、さらに利常没後綱紀が補修するが、八景、八境の趣味を取り入れ泉水、築山、小亭等は数奇をきわめたものであったと伝えられている。
 明治41年(1908)、夏日漱石の小説『三四郎』の主人公が、里見美禰子と池畔を散歩するなど、作中の舞台になったので、誰いうとなく三四郎池と呼ばれるようになった。

青山胤通像
青山胤通像
佐藤三吉像
佐藤三吉像

 青山胤通は美濃国苗木藩主の三男として江戸麻布の下屋敷に生まれる。明治15年(1882)に東京大学医学部を卒業、明治16年(1883)にベルリン大学に留学し、ウィルヒョウ教授らについて内科学と病理学を学んだ。明治27年(1894)香港のペスト流行に際し、北里柴三郎博士と共に派遣され病理解剖を担当したが、自ら感染した。医科大学長を16年間務め、医学界に影響力を発揮した。
 佐藤三吉は、大垣藩主の三男として生まれる。明治15年(1882)に東京大学医学部を卒業、スクリバ教師のもとで助手となった。明治33年(1900)第一回日本外科学会長、明治33年(1901)付属医院院長、大正7年(1918)東京帝国大学医科大学長を務めた。

病院 管理・研究棟
病院 管理・研究棟
医学部附属病院
医学部附属病院

エルヴィン・フォン・ベルツ像
エルヴィン・フォン・ベルツ像(左)
ユリウス・スクリバ像(右)

 ベルツは南ドイツのビーティヒハイムで生まれる。明治9年(1876)に下谷泉橋時代の東京医学校に招聘された。明治35年(1902)までの26年間、内科学の教育と診療にあたり、わが国の内科学の礎を築いた。明治38年(1905)に帰国した。「ベルツの日記」は日本の近代化を記録した歴史的資料として知られる。
 スクリバはヘッセン大公国ラインハイムに生まれる。明治14年(1881)に来日し、20年間にわたり東京大学医学部で教育・診療に従事し、わが国の外科学の礎を築いた。明治34年(1901)に東京帝国大学での任期が終了した。

大聖寺藩上屋敷跡
大聖寺藩上屋敷跡
健康と医学の博物館
健康と医学の博物館

薬学部
薬学部
隈川宗雄像
隈川宗雄像

 隈川宗雄は福島藩福島町出身。明治16年(1883)に東京大学医学部を卒業。翌年よりベルリン大学に留学した。大正6年(1917)、青山胤通教授の後任として医科大学長に就任した。

レオポルト・ミュルレル像
レオポルト・ミュルレル像
下山順一郎像
下山順一郎像

 ミュルレルは1824年ドイツのマインツ生まれる。「薬学」は医学と密接に連携する自然科学の独立文科であるとし、製薬学校設立を提案した。これにより明治6年(1873)第一大学区医学校(東京大学薬学部の前身)が設置された。
 下山順一郎は尾張犬山で生まれる。明治19年(1886)、かって3年間留学したドイツのストラスブルク大学よりDoktor der Philosophie、明治32年(1899)にわが国の薬学博士第1号を授与された。東京薬学会(現日本薬学会)の創立や、私財を投じて薬草園(是好薬園)の開設等を通し、後輩の育成にあたった。

医2号館本館
医2号館本館
懐徳館
懐徳館

 懐徳館内は一般の見学はできません。

⇒ 上野公園周辺 ウォーキングマップ