護国寺~伝通院~礫川公園
(池袋~水道橋)

池袋駅(JR山手線)~護国寺~伝通院~礫川公園~水道橋駅(JR総武線)
mark護国寺(ごこくじ)
不老門
不老門
仁王門
仁王門

 不老門は 仁王門を潜り石畳まっすぐ通り観音堂(現 本堂)につづく石段の中腹にある中門に位置する。三尾邦三氏の寄進により、昭和13年(1938)4月、亀山茶碗の記念として建立される。鶴は千年亀は万年と、いわれようにこの門を潜ると病気にならず、長寿でいてほしいという願いが込められた門である。
 仁王門の建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

本堂
本堂
(国重要文化財)

 神齢山悉地院護国寺(新義真言宗)は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願で、彼女の帰依する僧亮賢を開山とし、綱吉の将軍就任翌年の天和元年(1681)、雑司ヶ谷薬園の地に建立した。
 広い境内・墓域内には、大小さまざまな記念碑や著名人の墓碑も多いが、三条実美(公卿、太政大臣、内政大臣)、大隈重信(首相、早稲田大学創立者)、河野広中(自由民権の闘将、衆議院議長・大臣)など、明治の元勲クラスの墓がある。

月光殿
月光殿
(国重要文化財)
薬師堂
薬師堂

 月光殿は単層・入母屋造、正面軒破風付、桟瓦葺の桃山時代(17世紀初期)の書院造である。もと滋賀県大津市の園城寺(三井寺)の日光院の客院であったが、明治21年(1888)品川御殿山に移され、さらに昭和3年(1928)ここに移築された。
 薬師堂は、元禄4年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることなど禅宗様建築の手法ほとりいれていることである。小規模であるが、創建以後大きな改変もなく、元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。

多宝塔
多宝塔
音羽講中庚申塔
音羽講中庚申塔

三猿(左手前)
三猿(左手前)
三猿(右手前)
三猿(右手前)

 この庚申塔は、全国にもその例を見ない形式で、当時の民族や習俗を知る貴重な資料である。塔は規模も大きく(総高210cm)基檀部分、台座、塔部から形作られている。塔部は台座上の三猿によって空中で支えられ、天明5年(1785)の銘がある。台座は須弥檀形式(仏像をのせる台)で、その四面に内彫り装飾、返花紋様が施され、その彫りは精巧かつ華麗である。其檀部分には、門前の音羽通りの人々76人の名が刻まれている。当時お互いに力を合わせ、金銭を出し合う共同社会の成立や信仰心の深さなどを知る上で、貴重な資料である。

三猿(左手後)
三猿(左手後)
三条実美の墓
三条実美の墓

 三条実美は江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府では太政大臣を務め、内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。

大隈重信の墓
大隈重信の墓
大師堂
大師堂

 大隈重信は、佐賀藩主の長男として生まれた。地元で儒学、国学、蘭学、英語などを学んだ後は、京や長崎で尊攘運動に身を投じた。新政府では参議大蔵卿となる。木戸孝允と結び、若手官僚の幹部となった大隈は、地租改正などの改革を担当し、殖産興業を推進した。また酒造税を増徴し、官営工場を払い下げる方針を決定した。明治15年(1882)、東京専門学校(現・早稲田大学)を設立したことでも知られている。
 元禄14年建立の旧薬師堂を、大正15年に大修理して移建したのが、今の大師堂である。当山の大師堂は、高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。祖師尊像前には護摩壇が築かれ護摩法が修される。

mark伝通院(でんつういん)
於大の方の墓
於大の方の墓
千姫の墓
千姫の墓

 於大の方は、三河(愛知県)刈谷城主水野忠政の娘として生まれる。天文10年(1541)岡崎城松平広忠と結婚。翌年竹千代・後の家康を生む。父・水野忠政死後刈谷城を継いだ兄信元は織田家に付いた。今川氏の保護を受けていた松平広忠は今川家を慮ってお大を離縁し、刈谷へ帰したのだった。
 千姫は、二代将軍徳川秀忠の娘。慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子・忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。

孝子の墓
孝子の墓
於奈津の墓
於奈津の墓

 孝子は三代将軍徳川家光の正室、前関白鷹司信房の娘、元和9年(1623)京都から江戸に下り 江戸城西の丸に入る。寛永2年(1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま73歳で没す。
 於奈津は、徳川家康の側室。

本堂
本堂

 当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺。当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、徳川家康の生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。於大の方の法名「傳通院殿」から「伝通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
 しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更に第二次世界大戦では境内建物、宝物等全て灰燼に帰してしまった。戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新世紀の宗教活動に対応出来る新本堂を建立。平成9年(1997)には織月会館を建立。平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し、現在に至っている。

澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓

 公卿。政治家。三条実美らとともに尊壌派公卿として活躍するも文久3年8月18日の政変による尊壌派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。

鐘楼堂
鐘楼堂
了誉聖冏上人の墓
了誉聖冏上人の墓

 常陸国久慈郡巖瀬(現在の茨城県那珂郡大宮町上岩瀬)の城主白石志摩守宗義の子として誕生、幼名を文殊丸。5歳の時、父宗義が戦で非業の死を遂げ、その3年後、父の菩提を弔うために瓜連常福寺・了実上人に就き出家し、名を聖冏と改めた。上人はもとより聡明なお方であったが、尚一層のご修行と勉学に励み、広く仏教全般を学ばれ、更には神道・和歌にも深く通じた。残された著作は百巻を越え、特に「選択伝弘決疑鈔直牒」十巻は、応永3年(1396)に起こった「佐竹氏の乱」を避け阿弥陀山(不軽山ともいう)の洞穴に身を隠し、干し柿を食べて飢えを凌ぎ、洞穴の滴を硯に受けて撰述されたものである。

歴代上人の墓
歴代上人の墓

mark礫川公園(れきせんこうえん)
礫川公園 春日局像
礫川公園 春日局像
礫川公園
礫川公園

 礫川公園前に、春日局像がある。
 春日局(本名・斉藤福、幼名・ お福)は天正7年(1579)、明智光秀の重臣・斉藤利三の娘として生まれた。二代将軍徳川秀忠と同年の生まれである。光秀が山崎の合戦で敗れると、父・利三も斬首され、お福は母とともに京へ逃げた。天下が豊臣家のものとなり、幼少期のお福は周囲から「謀反人の娘」と見られながら育った。慶長9年(1604)、秀忠に息子・竹千代(のちの三代将軍 徳川家光)が生まれた。お福は乳母として採用され、以降、竹千代の養育に力を注ぐことになる。2年後に竹千代の弟・国松が誕生。病弱で内気な竹千代に対し、利発で容姿端麗な国松を秀忠とその妻・お江(於江与)は寵愛した。次期将軍に長兄である自分を差し置いて国松をと願う両親の心中に心を痛めた竹千代は。わずか10歳ながらに自殺を図る。深く傷ついた竹千代に、お福は根気強く向き合い、実母以上の愛情で接していた。

⇒ 早稲田周辺 ウォーキングマップ
⇒ 小石川後楽園周辺 ウォーキングマップ