護国寺~伝通院~礫川公園散歩
(護国寺~水道橋)

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mark護国寺(ごこくじ)
仁王門
仁王門
不老門
不老門

 仁王門の建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

本堂
本堂(国重要文化財)

 神齢山悉地院護国寺(新義真言宗)は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院(家光側室)の発願で、彼女の帰依する僧亮賢を開山とし、綱吉の将軍就任翌年の天和元年(1681)、雑司ヶ谷薬園の地に建立した。

月光殿
月光殿(国重要文化財)
薬師堂
薬師堂

 月光殿は単層・入母屋造、正面軒破風付、桟瓦葺の桃山時代(17世紀初期)の書院造である。もと滋賀県大津市の園城寺(三井寺)の日光院の客院であったが、明治21年(1888)品川御殿山に移され、さらに昭和3年(1928)ここに移築された。
 薬師堂は、元禄4年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。

多宝塔
多宝塔
音羽講中庚申塔
音羽講中庚申塔

 この庚申塔は、全国にもその例を見ない形式で、当時の民族や習俗を知る貴重な資料である。塔は規模も大きく(総高210cm)基檀部分、台座、塔部から形作られている。塔部は台座上の三猿によって空中で支えられ、天明5年(1785)の銘がある。

三猿(左手前)
三猿(左手前)
三猿(右手前)
三猿(右手前)

 台座は須弥檀形式(仏像をのせる台)で、その四面に内彫り装飾、返花紋様が施され、その彫りは精巧かつ華麗である。其檀部分には、門前の音羽通りの人々76人の名が刻まれている。当時お互いに力を合わせ、金銭を出し合う共同社会の成立や信仰心の深さなどを知る上で、貴重な資料である。

三猿(左手後)
三猿(左手後)
大師堂
大師堂

 元禄14年(1701)建立の旧薬師堂を、大正15年(1926)に大修理して移建したのが、今の大師堂である。当山の大師堂は、高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。祖師尊像前には護摩壇が築かれ護摩法が修される。

大隈重信の墓
大隈重信の墓
三条実美の墓
三条実美の墓

 「大隈重信は、佐賀藩主の長男として生まれた。地元で儒学、国学、蘭学、英語などを学んだ後は、京や長崎で尊攘運動に身を投じた。新政府では参議大蔵卿となる。木戸孝允と結び、若手官僚の幹部となった大隈は、地租改正などの改革を担当し、殖産興業を推進した。また酒造税を増徴し、官営工場を払い下げる方針を決定した。明治15年(1882)、東京専門学校(現・早稲田大学)を設立したことでも知られている。」()

mark伝通院(でんつういん)
於大の方の墓
於大の方の墓
千姫の墓
千姫の墓

 「於大の方(伝通院)は、三河(愛知県)刈谷城主水野忠政の娘として生まれる。天文10年(1541)、松平氏八代当主松平広忠と結婚。翌年竹千代・後の家康を生む。父・水野忠政死後刈谷城を継いだ兄信元は織田家に付いた。今川氏の保護を受けていた松平広忠は今川家を慮って於大の方を離縁し、刈谷へ帰したのだった。
 千姫(天樹院)は、二代将軍徳川秀忠の娘。慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。元和元年(1615)城を出て翌年、姫路藩初代本多忠政の子・忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。
」()

鷹司孝子の墓
孝子の墓
於奈津の墓
於奈津の墓

 鷹司孝子(本理院)は三代将軍徳川家光の正室、前関白鷹司信房の娘、元和9年(1623)京都から江戸に下り 江戸城西の丸に入る。
 於奈津は徳川家康の側室である。

本堂
本堂

 「当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺。当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、徳川家康の生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。於大の方の法名「傳通院殿」から「伝通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。 」()

澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓
澤宣嘉の墓

 澤宣嘉は公卿・政治家。三条実美らとともに尊壌派公卿として活躍するも文久3年8月18日の政変による尊壌派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。

鐘楼堂
鐘楼堂
了誉聖冏上人の墓
了誉聖冏上人の墓

 了誉聖冏上人は常陸国久慈郡巖瀬(現在の茨城県那珂郡大宮町上岩瀬)の城主白石志摩守宗義の子として誕生、幼名を文殊丸。5歳の時、父宗義が戦で非業の死を遂げ、その3年後、父の菩提を弔うために瓜連常福寺・了実上人に就き出家し、名を聖冏と改めた。上人はもとより聡明なお方であったが、尚一層のご修行と勉学に励み、広く仏教全般を学ばれ、更には神道・和歌にも深く通じた。

歴代上人の墓
歴代上人の墓

mark礫川公園(れきせんこうえん)
春日局像
春日局像
礫川公園
礫川公園

 礫川公園前に、春日局像がある。

 「春日局(本名・斉藤福、幼名・ お福)は天正7年(1579)、明智光秀の重臣・斉藤利三の娘として生まれた。二代将軍徳川秀忠と同年の生まれである。光秀が山崎の合戦で敗れると、父・利三も斬首され、お福は母とともに京へ逃げた。天下が豊臣家のものとなり、幼少期のお福は周囲から「謀反人の娘」と見られながら育った。慶長9年(1604)、秀忠に息子・竹千代(のちの三代将軍 徳川家光)が生まれた。お福は乳母として採用され、以降、竹千代の養育に力を注ぐことになる。」()

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