大円寺~五百羅漢寺~祐天寺~太子堂
(目黒~三軒茶屋)

目黒駅(JR山手線)~大円寺~五百羅漢寺~目黒不動尊~林試の森公園~祐天寺~太子堂~三軒茶屋駅(東急田園都市線)
mark大円寺(だいえんじ) ・五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)
大円寺
大円寺
五百羅漢寺
五百羅漢寺

 大円寺は、目黒駅西口の三井銀行の左横を下るかなり急な坂を行人坂といい、坂の途中に大円寺(天台宗)がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによるという。「明和の大火」は、大円寺からあがった火の手は、たちまち燃え広がり、折からの強風にあおられ三日三晩にわたる大火となってしまいました。大火後亡くなった人々1万4千七百余人を供養するために作られた五百羅漢の石仏群は、それぞれの表情に特徴があり赤ん坊を抱いた女性の羅漢像もある。
 五百羅漢寺は、元禄8年(1695)、京都の仏師松雲元慶が彫った五百羅漢を安置するため、亀戸に一堂が開かれたのが始まりで、明治の末、当地に移転した。第2次大戦中から戦後にかけ、桂太郎の愛妄で大正政変に名を残すお鯉さんが、妙照尼として在職となっていた。近年、ビル式の堂舎に建てかえられている。五百羅漢寺は現在三百余体が残っており本堂と羅漢堂に安置されている。

mark目黒不動尊(めぐろふどうそん)
仁王門
仁王門

 江戸時代の建造物はすべて第2次世界大戦の空襲で焼け、仁王門は昭和36年(1961)の再建である。

独鈷の滝
独鈷の滝
独鈷の滝
独鈷の滝

 目黒不動の境内でもっとも特徴のある景観は、独鈷の滝とその滝壷を整備して作った垢離場である。寺伝によれば、九世紀のころ、円仁(慈覚大師)が手にした独鈷桙で地を一撃したところ霊泉が湧出した。それで独鈷の滝と名づけたという。現在は戦前に比べると垢離をとる人も減ったが、青竜の頭を摸した蛇口から流れ出る水は豊かである。石崖で囲い駒寄せ垣を設けた垢離場や、脱衣場と祈念所を兼ねた垢離堂など二連の設備は『江戸名所図会』や広重の浮世絵などにも描かれているが、堂の側に寛延3年(1750)に完成したことを示す碑が建っている。

弁天堂(三福神)
弁天堂(三福神)
前不動堂
前不動堂

 弁天堂の開基は、今から1000年以上前の平安時代。江戸時代には、三代将軍徳川家光の信仰も篤く、53棟にも及ぶ大伽藍が復興され、そのきらびやかさは、「目黒御殿」と称されるほどだったらしい。千葉の成田不動尊、熊本の木原不動尊と並び、日本の三大不動のひとつに挙げられる。
 方形造の 前不動堂は、享保(1716~35)初期の作とされている。『前不動堂』と記した佐々木玄竜書の扁額と共に東京都指定有形文化財に指定されている。玄竜は弟の文山とともに能書として有名である。

本堂
本堂

 江戸時代の建造物はすべて第2次世界大戦の空襲で焼け、仁王門は昭和36年(1961)の再建である。 現本堂は昭和56年(1981)の完成で、開創以来と伝承する本尊不動明王像を安置している。大本堂前の石段下の前不動堂は、戦災を免れ江戸中期の建築を残している。仁王門左手にある弁天堂は、弁財天のほか山の手七福神の一つに数える恵比須も安置している。

持国天
持国天像
広目天
広目天像
昆陽青木先生碑銘
昆陽青木先生碑銘
青木昆陽の墓
青木昆陽の墓(国史跡)

 青木昆陽は江戸中期の儒者者、通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ。父は日本橋の魚河岸で働く魚問屋であったが、昆陽には商売を継ぐ意思は薄く、できることなら学問の道で生きたいと考えていた。そして、22歳の時、両親の許しと協力を得て京に出ると、儒者学・伊藤東涯の弟子となったのである。

mark林試の森公園(りんしのもりこうえん)
冒険広場
冒険広場
林業研究発祥の地碑
林業研究発祥の地碑

 明治33年(1900年)6月に当時の農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、その後「林業試験場」に名称を変更、林野庁の付属となり昭和53年(1978)まで営々として使用されてきた。そして、筑波研究学園都市の建設に伴い、移転した跡地を整備し、「目黒公園」の暫定開放期間を経て、平成元年(1989)6月1日に「林試の森公園」として生まれ変わり開園した。園内には、冒険広場の他にプラタナス広場、 大きな広場、森の広場、出会いの広場、キャンプ場などがある。

ブナ
ブナ
アメリカスズカケノキ
アメリカスズカケノキ

 ブナは深山に生える落葉高木で高さ30mぐらいになる。樹皮は灰白色でなめらか。葉は有柄で互生し、長さ5~8cmの卵形で質はやや硬く、裏面脈上のみ毛がある。建築、器具(農具・そり)、船舶、バルブなどに用いられる。堅果は食用となる。
 アメリカスズカケノキは街路樹として、また、公園、学校などに植えられている落葉高木。高さ15~30mほどになる。樹皮は暗褐色で縦に割目が入るが、大きくはがれ落ちることはほとんどない。

せせらぎ橋
せせらぎ橋
ケヤキ
ケヤキ

 林試の森公園のケヤキは樹齢200年を越す巨樹である。落葉大高木で、温帯から暖帯に分布し、景観樹木として美しく武蔵野の情緒には欠かせない。

大きな広場
大きな広場

 約60種の外国産樹木があり、専門家も立ち止まって考え込む程。チンタオトゲナシニセアカシアなど長い名前をもつものや、トチュウなど聞きなれないものもある。特に東門の一画は外国産針葉樹の見本園的な配植になっている。他の公園ではあまりお目にかかれない樹木が多くあり、樹木観察には最適の地である。絶滅危惧種のハナガカシをはじめ、ヨコグラノキ、ナナメノキ、クロキといった日本の珍しい樹木やカイノキ、シナユリノキ、ユサン、アメリカトネリコなど外国産樹木の観察が楽しめる。

mark祐天寺(ゆうてんじ)
仁王門
仁王門

 正面の両脇間に享保20年(1735)法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられている。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配している。なお、頭貫上の蟇股十二支が彫られ、方向を示している。

累塚
累塚
地蔵堂
地蔵堂

 祐天上人は増上寺第三六代の大僧正で徳川家四代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。寛文8年(1668)の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事蹟あり。文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。大正15年(1926)、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地に累塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習ならわしとなっている。
 地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は、寛政9年(1797)に信州松本の光明院から祐天寺に遷座されました。祐天上人はこの地蔵菩薩の生まれ変わりとして伝えられ、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、延命と火消しのご利益を授ける地蔵菩薩である。祐天上人は陸奥石城郡新倉村に生まれ、12歳のとき増上寺の子院池徳院に入り、のち檀通上人の教えを受け長くこれに随侍した。生来鈍根であったが、ある時不動の剣を呑むと夢見て悪血を吐き、以後頭脳明晰となって学が進んだという伝説がある。50歳のときから諸国を遊歴し衆生教化に努めた。檀通の死にあい江戸に帰り、牛島に隠棲したが、元禄12年(1699)幕命にょって下総生実の大巌寺に任し、翌年弘経寺に移り、宝永元年(1704)に江戸小石川伝通院に転任した。正徳3年(1713)77歳のとき増上寺の住職となり、大僧上に昇進した。将軍の尊崇もあつく、しばしば登城したが享保3年(1718)82歳で亡くなった。

梵鐘
梵鐘
阿弥陀堂
阿弥陀堂

 この梵鐘は、享保13年(1728)に六代将軍徳川家宣の17回忌追善のため、正室天英院が鐘楼とともに寄進されたものである。本体の高さ192m、口径102m、目方1,200kgある目黒随一の巨鐘で、祐天寺内で鋳造された。 翌年の4月14日から16日までの3日間にわたり、祐海上人を導師として鐘楼には葵の御紋付き紫縮緬の幕が張られ多数の貴賓が参列し、盛大な鐘供養がおこなわれた。江戸の昔から昼12時に覚醒の法音として撞かれてきた。今でも正午に時の鐘として撞かれている。
 阿弥陀堂は、五代将軍 徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めている。各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いもの。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられている。祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして 仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものである。

本堂
本堂

 八代将軍徳川吉宗などからも崇高された、江戸時代の高僧祐天の遺徳をしのび、高弟祐海が亨保3年(1718)建立した寺院である。明治の大火で壮麗を誇った江戸以来の建物はほぼ焼失したが、仁王門・ 地蔵堂・ 阿弥陀堂・ 鐘楼などは焼失を免れた。

mark太子堂(たいしどう)
太子堂
太子堂
円泉寺
円泉寺

 太子堂は文録4年(1595)建立と伝え、木造聖徳太子立像(像高約30cm)のある太子堂の号をとって地名が生まれた。敷地内にかって清泉か沸き出していたといわれ、明治3年(1870)に村民有志が郷学所を設立し、1873年幼稚学所、そして世田谷内最初の小学校の小学荏原学校となった。
 円泉寺は号を聖王山法明院といい、真言宗に属する。開山した賢恵僧都は、葛飾郡新堀村の生まれである。文禄元年(1592)、僧都は大和国久米寺から聖徳太子像と十一両観世音を背負って関東へ下った。同4年(1595)、当地に来て霊夢をみた。聖徳太子は「この地に霊地あり円泉ケ丘という。つねに霊泉涌き、永くここに安住せん」と夢の中で告げた。翌年本堂・太子堂・庫裡が完成、本堂には十一面観世音を安置した。

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