浜離宮恩賜庭園~増上寺~泉岳寺
(新日本橋~品川)

新日本橋駅(JR総武快速線)~浜離宮恩賜庭園~増上寺~泉岳寺~品川駅(JR山手線)
mark浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)
浜離宮庭園
雪景色(国特別名勝)(国特別史跡)

 海水を引き入れた潮入の池と、ふたつの 鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園。承応3年(1654)、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍徳川家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子、綱家(徳川家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになった。
 冬の時期には、ボタン園の冬ぼたん、雪の中島の御茶屋、そして梅林では早咲きの梅もあり、雪景色の美しい庭園を楽しむこともできる。

冬ぼたん
冬ぼたん
雪の中島の御茶屋
雪の中島の御茶屋

mark増上寺(ぞうじょうじ)
三解脱門
三解脱門(国重要文化財)

増上寺 大殿
増上寺 大殿
幼少の法然さま像
幼少の法然さま像

 浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計で、昭和49年(1974)、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。「大殿と称し、石段を登りきった二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に三縁ホールなどを備えている。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめている。

大梵鐘
大梵鐘
徳川家霊廟
徳川家霊廟

 大梵鐘は、延宝元年(1673)、品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さ一尺(約3m)、重さ四千貫(約15t)の大梵鐘。時の四代将軍徳川家綱の命により、奥方のかんざしなど多くの寄付を集めて江戸で始めて造られた鐘である。この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、江戸庶民に親しまれ、多くの川柳を生んでいる。
 今鳴るは 芝か上野か 浅草か
 江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘

mark泉岳寺(せんがくじ)
本堂
本堂
浅野内匠頭長矩の墓
浅野内匠頭長矩の墓(国史跡)

 泉岳寺は慶長17年(1612)、門庵宗関によって、江戸城近くの外桜田の地に創建された。その後、寛永の大火によって焼失したため、現在の東京都港区高輪に移された。この移転事業に際し、浅野・毛利・水谷・朽木・水野の五大名が奉行を勤め、やがて完成の後、そのまま檀家赤穂浅野家もこの時以来、当寺を江戸表における菩提寺とした。寺内に、首洗井、義士館、大石内蔵助良雄の銅像などがある。毎年、2月4日、3月14日、4月1~7日、12月14日に祭典を催し、多くの参拝者の共感を得ている。
 浅野内匠頭長矩は延宝3年(1675)、9歳で父・長友の知行を引き継ぎ赤穂藩主となる。延宝8年(1680)、内匠頭に任ぜられる。天和3年(1683)、亜久里との婚儀を行い、同年に初めて勅使饗応役を努める。
 元禄14年(1701)3月14日、勅使饗応役浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下吉良上野介義央に刃傷におよび、即日一関藩主田村右京太夫の屋敷で切腹を命ぜられた。

大石内蔵助良雄の銅像
大石内蔵助良雄の銅像
子供赤穂義士(記念写真)
子供赤穂義士(記念写真)

 浅野家の断絶に対して吉良にはおとがめがなかったことから、喧嘩両成敗の原則に反するとして、家老大石内蔵助良雄ら四十七義士は翌年の12月14日吉良邸に討ち入って主君の遺恨をはらし、翌日泉岳寺の主君の墓前に報告した。自首した46人は4家に預けられ、元禄16年(1703)2月4日に切腹を命ぜられた。(寺坂吉右衛門は、討ち入り後、大石の命で国元への報告のために別行動をとったという)
 討入り三百年を平成13年に迎え、今年は「三百年記念事業」が行われるため、境内は多くの参拝者が訪れたいた。赤穂義士にふんする子供達にも、カメラが向けられていた。

四十七義士墓所
四十七義士墓所(国史跡)

源流芝太鼓連のみなさん
源流芝太鼓連のみなさん

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