北原白秋(1885~1942)は、明治・大正・昭和の詩人・歌人である。大正2年(1913)、人妻との恋愛事件で心身とも疲れ、東京をのがれて三崎へ来遊した。のち一家で来住。向ヶ崎の異人館。さらに二谷町の見桃寺などに寄寓した。この三崎時代に『雲母集』『真珠抄』の歌集など数多くの詩を創作した。
大正2年(1913)に白秋の作詩した「城ヶ島の雨」は、曲がついた最初の作品で、大正9年(1919)奥田良三がレコードに吹き込んで全国的にヒットした。そして、この歌が、三浦三崎、城ヶ島を天下に紹介し、日本歌謡建設の先駆的役割をなした。
城ヶ島大橋下の海辺には「城ヶ島の雨」の一節が刻まれる白秋詩碑がある。そばにある白秋記念館からは「雨がふるふる城ヶ島の磯に・・・」の懐かしい音楽が流れていた。
毎年、1月中旬から2月上旬頃までの「城ケ島水仙まつり」が開催されおり、園内の散策路には八重水仙 花が咲き誇る。
緑陰広場では、強風により変形した松の姿が見られる。
安房の国といえば当地より望見する南房総一帯(千葉県)をいい、その安房に向く岬という意味から安房崎の地名がついたと言われている。
公園南側の海蝕崖では、およそ2,000羽にも及ぶウミウの越冬地になっている。
ウミウは毎年11月から翌年4月にかけて飛来する。ウミウ、ヒメウ及クロサギの生息地として県の天然記念物に指定されている。冬の城ヶ島の風物詩になっている。
自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に侵蝕されてこのような見事な形となったもの。土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」「眼鏡の洞門」などと呼ばれている。
馬の背の洞門辺りから城ヶ島灯台までは砂浜を歩く。遠くには富士山を望むことができ、とても景観がすばらしい所である。
城ヶ島灯台の歴史は古く、慶安元年(1648)の烽火台までさかのぼる。様式灯台としての初灯は明治3年(1870)で、その際使用されたレンガは「ヨコスカ製鉄所」の刻印があり、日本で最初のものである。大正12年(1923)の関東大震災で崩壊後、現在の灯台がたてられたが、白タイルの灯台としては日本最初のものといわれる。
快速観光船の城ヶ島一周コース(約25分間)の遊覧。安房崎灯台、洲の御前、ウミウの生息地、馬の背洞門、城ヶ島灯台などが見所。北原白秋の「城ヶ島の雨」の歌が流れ、白秋の世界に入ります。
城ヶ島大橋を渡り、「油壼(あぶらつぼ)・入江(いりえ)のみち」沿いに通る。途中、歌舞島公園と見桃寺(桃の御所、三浦七福神)を見ながら油壼へ歩いた。
かってここに新井城があって三浦氏一族終焉の地であることは意外に知られていない。八代当主三浦時高は永享の乱で、四代鎌倉公方足利持氏に敵対し、持氏滅亡後はこれにかわった管領上杉氏と結んだ。その後、扇谷上杉持朝の孫の十代当主三浦義同(道寸)を養子として、名門三浦氏再興ののぞみを推し進めようとした。しかし晩年時高に実子が生まれたので、義同は小田原の総世寺にしりぞいたが、のち大森氏の後援を得て、養父時高を新井城に攻め滅ぼしたという。義同は新井城を子の荒次朗義意にまかせ、みずからは岡崎城(平塚市・伊勢原市)によった。しかし、やがて初代当主北条早雲が小田原にたつと、義同はその早雲との戦いに敗れ、最後の拠点新井城に立てこもった。籠城3年、ついに永正13年(1516)、名門三浦氏はここで滅亡した。このとき多くの将兵が海に三浦氏はここで名望投じ、海が血で油のようになったことから「油壺」の地名の由来という。
荒井浜に通じるハイキングコースを少し入った所に、油壼湾の景勝50選の石碑と、三浦氏滅亡の場となった新井城址がひっそりと残っている。
京急油壼マリンパーク(公式ホームページ)は、小網代湾と油壺湾の間に突き出た岬の先端にある一大レジャーランド。中心となるのは水族館「魚の国」。約3000匹の魚が泳ぐ回遊水槽があり、1周約80m、マリンガールによる餌付けタイムもあり、タイ、ブリ、カツオなどの泳ぎっぷりとともに、楽しませてくれる。
京急油壼マリンパーク横から荒井浜へ下りる細い道がある。砂浜から眺める伊豆・天城の連山から箱根の山、富士山は素晴らしい。