鎌倉に入った源頼朝が邸宅を構え、その後はじめて幕府が置かれた地である。大倉幕府は、頼朝・頼家・実朝の源氏三代の将軍および尼将軍北条政子の時代の幕府で、三代執権北条泰時が宇津宮辻子幕府に移すまでのあいだ幕府政治の中心地として機能した。
大倉幕府の東側にあった東御門付近では、やぐら、そして沢山の五輪塔が見つかっている。
頼朝は相模川橋梁視察の帰路の落馬が原因で53歳の生涯を閉じた。遺体は頼朝の持仏堂に安置され、これがのちに法華堂と呼ばれるものである。
白旗神社がある場所は、頼朝の墓所をまもり、頼朝の霊をまつる法華堂(墳墓堂)があって、江戸時代は鶴岡供僧相承院が兼務していたが、明治初年の神仏分離令に伴い撤去された。堂内にあった如意輪観音や、地蔵菩薩・自休像などは来迎寺に移された。その後の明治5年(1872)、背後の山腹を削りとり1.7m地表に盛土をして、白旗神社が建立され頼朝の霊をまつるようになった。
二代執権北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡である。義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創立を助けた。承久3年(1221)の承久の乱において後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなった。
法華堂跡から、さらに石段をのぼると、大江・毛利・島津氏の墓が古墳時代後期の石垣のなかに横穴墓を改修した場所にある。内部には近世以降のものと与られる五輪塔が建っている。
大江氏は平安時代以降、文章道をつかさどった公家で、大江広元は中原広李の子で、源頼朝の招きによって元暦元年(1184)に下向し、鎌倉幕府の公文所の別当となった。守護地頭の設置建議など、幕府の基礎づくりにたずさわり、後には北条氏独裁体制の成立を支持し勢力を維持した。広元の四男の毛利季光は、中国地方の大名である毛利氏の祖は相模国毛利荘の地頭となり毛利氏を名乗るが、宝治元年(1247)三浦氏の反乱に加担し三浦氏とともに法華堂で自刃した。
島津忠久は、のちの南九州地方の大名となる島津氏の祖である。
大倉やぐら群の下あたりにあるやぐら、宝治元年(1247)、安達景盛(安達盛長の子)の陰謀で、三浦泰村ら三浦氏一族は謀反の疑いをがけられ、かねてからの宿敵の北条氏(五代執権北条時頼)によって攻められ、法華堂に追いつめられた一族ら500余人はここで自決した。
太平寺は、鎌倉時代末、相模の豪族の娘の妙法尼が、釈迦如来像を祀り大休正念が落慶供養したという。室町時代の初めに、初代鎌倉公方足利基氏の未亡人である清渓尼はこの寺を中興し、鎌倉尼五山の第一位になった。その後、北条氏綱は太平寺を廃寺とし、その仏殿を円覚寺に移し、昭堂(円覚寺塔頭正続院の舎利殿)とした。
寺伝によれば一向上人が鎌倉期に創建したと伝える。本尊は江戸期の阿弥陀三尊像であるが、本堂内には著名な三つの彫刻がある。如意輪観音像は法華堂から来迎寺へ移された像である。
荏柄天神社は、縁起によれば、長治元年(1104)8月25日に雷雨とともに天神画像がくだり、里の人が社殿をたてその画像をおさめ、大イチョウの木を植え、神木としたという。大倉幕府の鬼門の守護神として崇拝されたと伝えられる。
九州の太宰府天満宮や京都の北野天満宮と並ぶ日本三天神の1つに数えられている。明治の神仏分離まで、東寺の末寺である一乗院(廃寺)が別当として管理していた。神門をはいると、左右に紅梅と白梅を配したさきに、鶴岡八幡宮の仮殿を移した拝殿と本殿からなる社殿がある。(境内国史跡)
本殿は、元和8年(1622)鶴岡八幡宮造営のときに八幡宮の若宮社本殿を移築した、鎌倉に残る最古の木造建築である。本殿は三間社流造造の形式で、社宝には「弘長元(1261)年」銘の木造天神坐像(国重要文化財)や、木造菅公立像(国重要文化財)があり、ともに鎌倉期の作で「怒り天神」ともいう。
拝殿の左手に「絵筆塚」がある。清水昆、横山隆一らによって建てられたもので、自然石には「漫画家154人の河童絵」がぎっしりと描かれている。訪れた人は、ユニークに描かれた河童達を眺めながら微笑んでいた。
大イチョウは鎌倉では鶴岡八幡宮の大銀杏につぐ大木である。根回り6.5m、樹齢は900年と伝える。
勝長寿院は源頼朝が父源義朝の供養のため、元暦元年(1184)、この地に定め、翌文治元年(1185)に阿弥陀如来を本尊として建立した寺院である。源氏の菩提寺という性格が強く、三代将軍源実朝も火葬のうえ当寺のかたわらに埋葬されたという。鶴岡八幡宮・永福寺と並ぶ三大寺院に数えられる。
覚園寺手前には、天園ハイキングコースへ登り口がある。
覚園寺の始まりは北条義時が建保6年(1218)に建立した大倉薬師堂である。のちに九代執執権北条貞時が元冠の難を避ける祈願のために智海心憲を開山として、寺院として整備した。南北朝時代には後醍醐天皇や足利尊氏の保護も受けた。
境内にある薬師堂は、たび重なる天災により何度も大破し、厳密にいえば江戸期の建築であるが、その用材や禅宗様の様式など室町期の面影を残す。薬師堂内の薬師三尊像(国重要文化財)は、中央に中尊薬師如来、脇侍の日光・月光菩薩の巨像がある。(境内は写真撮影禁止)