石垣が美しい熊本城

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mark熊本城(くまもとじょう)

 宿泊ホテルが熊本キャッスルホテルだったので、 熊本城の須戸口門までは歩いても数分の近さである。昨夜遅くまで降っていた雨も朝方には止み、天守前の広場に上がる頃には青空の美しい天気に回復していた。

熊本城 大・小天守
熊本城 大・小天守(国特別史跡)

 熊本市の中心部に、今も天下三名城の1つとしての偉容をみせる熊本城は、戦国武将の加藤清正の築城で知られる。城城は茶臼山(50m)とよばれた丘陵地全域を占め、周囲5.3km総面積98万㎡におよぶ。往時、城内には大小の天守閣を始め、櫓49・櫓門18・城門29が配置され、重臣たちの屋敷も立ち並んでいた。茶臼山は東から南に坪井川、外側に白川、西を井芹川が流れる要害の地である。熊本城の歴史は、15世紀後半、菊池氏の一族出田秀信が茶臼山の東端に築いた千葉城に遡る。その後、戦国武将の鹿子木親貝(寂心)が茶臼山の西南部に居城を築いたが、これを現在の熊本城と区別して隈本城(古城)とよぶ。天正16年(1588)、加藤清正は最初この隈本城を居城としたが、朝鮮出兵(1592・97年)から帰国後、城郭造営に着手したとみられる。慶長5年(1600)の関ケ原の戟いの軍功で肥後一国の国守となった清正は、翌年から熊本城の築城を始め、1607年に完成させたと伝えられる。加藤家は寛永9年(1632)、清正の子息広の代に改易となり、細川忠利が入国した。
 寛永年間(1624~44)、細川氏によって大改修が行われたが、今日の熊本城の原型はこのときに定まったとみられる。明治維新後、城内に政府軍の鎮台がおかれたため、明治9年(1876)には神風連(敬神党)が斬り込み、1877年の西南戦争で戦場となり、そつ際に、天守閣を始め多くの櫓を焼失した。

宇土櫓
宇土櫓(国重要文化財)
地図石
地図石

 宇土櫓は、第三の天守とも云われ、三層五階、入母屋屋根を二段に重ね、再上階の望楼は高欄になっていて、たるみのない屋根、直線的な破風など大・小天守とはまったく異なった風格をもっている。地図石は、この箱型の石組みは、古くから地図石と呼ばれてきた。日本地図・熊本城下地図・熊本城平面図を表現したものなどいろいろ諸説を出したが、旧藩時代の絵図には「御待合口」との付箋が付いたものがあり、今日では数寄屋丸お茶屋への参入口の装飾であったと考えられている。

天守からの眺め
天守からの眺め

修学旅行の学生
修学旅行の学生
銀杏(梅園にて)
銀杏(梅園にて)

 天守は修学旅行の学生と一般の観光客で混み合っていたので、写真を撮るのにもひと苦労する有様であった。そして、数寄屋丸の下に当る梅園の黄金色した銀杏のじゅうたんが、とても綺麗に見えたのが印象に残っている。

苔の緑が美しい石垣
苔の緑が美しい石垣
長塀
長塀(国重要文化財)

 長塀は、熊本城の南側を守る重要な塀で、平御櫓から馬具櫓まで坪井川に沿って一直線に築かれていて、我が国城郭の内で最長(約242m)の塀と言われている。

石垣と大天守
石垣と大天守

 帰り道は竹の丸に出て須戸口門に戻った。竹の丸からの石垣と大天守は、よく写真で目にする場所である。

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