名古屋城の桜満開
(正門・西之丸・本丸・天守閣・二之丸)

市役所駅(地下鉄名城線)~名古屋城~市役所駅(地下鉄名城線)
mark名古屋城(なごやじょう)

 尾張徳川家は徳川御三家と称され、徳川義直(徳川家康の九男)が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置した。尾張徳川家は以後、十六代にわたって明治維新まで続いた。名古屋城は十七代の居城として明治まで利用された。

恩賜元離宮 名古屋城
恩賜元離宮 名古屋城

 名古屋城の取り壊しは、陸軍大佐中村重遠や駐日ドイツ公使マックス・フォン・プラントの進言を受けた陸軍卿山縣有朋により中止され、明治12年(1879)に城郭の保存が決定された。この時点で名古屋城は陸軍省の所管であったが、明治26年(1893)に宮内省に移管され、名古屋離宮となる。昭和5年(1930)に名古屋離宮は廃止され、宮内省から名古屋市に与えられた。名古屋市は「恩賜元離宮」として市民に一般公開し、城の建物や障壁画などは国宝(旧国宝)に指定された。その後、昭和20年(1945)5月の名古屋空襲で建物の大半が焼失したが、昭和34年(1959)に天守が再建された。

名古屋城と桜
2014.3.31 名古屋城の桜
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西之丸から眺めた天守閣
西之丸から眺めた天守閣

 名古屋城天守台の石垣は、石垣築造では全国一を自負していた加藤清正が請け負ったもので、これは天下普請の一環であったが、天守本体の建築工事はもちろん幕府の直営で行われた。天守本体の建築工事は、慶長17年(1612)に行われた。作事奉行(建築工事関係の稔責任者)は譜代大名であり作庭家と茶人として高名をはせた小堀政一(遠州)、大工棟梁は幕府御大工頭で豊臣秀頼の京都方広寺大仏殿を建てた中井正晴、大工頭は熱田神宮の宮大工で信長の安土城天主を建てた家系である岡部又右衛門といった具合で、日本の城郭史上で最も著名な技術者らを集めて建造された天守であった。天守は本丸の北西隅に位置する五重五階、地下一階の巨大天守。白漆喰を塗籠た純白の外壁に、鋼瓦を葺いた屋根、軒先が鋭く反り返るなど高貴な雰囲気を漂わせている。創建当初は最上重のみが銅瓦葦であったが、その後、二重目以上のすべての屋根に当時よりも軽く、耐久性を増した銅瓦が葺かれた。屋根の上には徳川家の威光を示す金髄が載せられている。

西之丸の桜
西之丸の桜
西南隅櫓(未申櫓)
西南隅櫓(未申櫓)(国重要文化財)

 西南隅櫓は未申櫓ともいわれ、屋根 2 層・内部 3 階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けている。大正10年に石垣と共に崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる。

三之丸の空堀
三之丸の空堀
お堀と桜
お堀と桜

 三之丸は土居(土塁)で作られ、城内付近だけを石垣とする。土居には、もとは松の老木が生えていた。

本丸表二之門
本丸表二之門(国重要文化財)
本丸表一之門跡
本丸表一之門跡

 本丸表二之門は、表門枡形の高麗門で、焼失を免れて現存する。扉や柱を総鉄板張りにした厳重な鉄門。両側に続く土塀は土壁の内部に分厚い板をはめ込んだ最強の構造であ。
 本丸表一之門は、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落を設けていた。昭和20年(1945)、空襲により焼失した。

本丸御殿玄関
本丸御殿玄関

 太平洋戦争の戦災によって、旧国宝であった名古屋城本丸御殿は天守や小天守・城門・隅櫓とともに消失した。これらが残っていたら、日本の城郭の代表作として世界遺産登録は間違いない。名古屋城本丸御殿は、現存する国宝二条城二の丸御殿とともに城内御殿の双壁で、書院造邸宅の最高傑作だった。御殿の豪華さだけでなく、御殿を構成する殿舎の種類や棟数では国内無類であって、幕府系正式御殿の威光を示すものであった。

 一般公開
  (玄関・表書院) (対面所・上洛殿・梅之間)

名古屋城跡
名古屋城跡(国特別史跡)

 名古屋城は織田信長の居城であった那古野城跡に、徳川家康の天下普請で築城された巨大な城である。「尾張名古屋は城でもつ」と謳われたように、高い石垣をもつ巨大な城郭で、金の鱗をつけた秀麗な天守が建っていた。その天守につき従うような、小天守・隅櫓や御殿も残っていたが、戦災で焼失した。

雌鯱(南側)
雌鯱(南側)
雄鯱(北側)
雄鯱(北側)

 天守屋根の金鱗は、海生哺乳類の「シャチ」ではなく、口から水吐く空想上の生き物で、火除けのまじないとして建築物に用いられてきた。天守に鱗の装飾をもつ城は数多いが、名古屋城の金鱗は特に有名で、今なお名古屋の街の象徴となっている。竣工当時の金鱗は慶長大判1940枚分、215.3kgの純金が使用されていたといわれる。これは家康が万一の資金として与えたものとされ、後世、尾張藩の財政が悪化するたびに金鱗の鱗を剥がして改鋳したため、幕末には金の含有量が減り、光沢がくすんでしまったという。

東南隅櫓(辰巳櫓)
東南隅櫓(辰巳櫓)(国重要文化財)

 本丸の南東にある屋根二重・内部三階の櫓。出窓には「石落し」が設けられ武具が納められていた。

清正石曳きの像
清正石曳きの像
清正石
清正石

 慶長15年(1610)加藤清正徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施工した。清正は巨石を修羅乗せて運ぶとき、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、「清正の石曳き」といわれている。清正石は本丸東御門の石垣にはめこまれている巨大な石で、横幅6m、高さは2.5mもある。この石塁の施工大名は黒田長政だが、石につけられた名称はなぜか「清正石」。これは天守台の普請を担当した加藤清正が、この石とは別の大きな隅石を大勢の人数を使って引き運んだという説話が残っており、その石と混同されてしまったためだ。

三之丸広場
二之丸広場

 名古屋城内には、本丸御殿のほかに明治初期に取り崩された二の丸御殿があった。二の丸御殿のほうは、徳川御三家の筆頭すなわち尾張藩主の御殿で、その建築面積は本丸御殿の5倍ほどもあった。

那古野城跡石碑
那古野城跡石碑
二の丸茶亭
二の丸茶亭

 16世紀前半、今川本家の氏親は尾張進出の拠点として、現在の名古屋城の二の丸の辺りに柳ノ丸を築城した。柳ノ丸には氏親の末子氏豊が入ったが、天文7年(1538)ころに尾張守護代の一族であった織田信秀がこれを奪い、那古野城と改称した。信秀の子として天文3年(1534)に生まれた織田信長は、信秀から那古野城を譲られた。

二之丸庭園
二之丸庭園(国名勝)

 二之丸庭園は、元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金声振閣)を中心として設けられたが、享保(1716~36)以後たびたび改修せられて枯山水回遊式庭園に改められた。

東門
東門
愛知県体育館
愛知県体育館

西北隅櫓
西北隅櫓(清州櫓)(国重要文化財)
名城公園
名城公園

 西北隅櫓は名古屋城に現存する三つの隅櫓の一つで、清州城の古材を転用して建築されたと伝えられてることから「清州櫓」とも呼ばれている。北面と西面に石落を備えた大型の入母屋造の出窓が設けられている。

名城公園からの天守閣
名城公園からの天守閣

mark那古野神社(なごやじんじゃ)
拝殿
拝殿

 社伝によると創祀は延喜11年(911)と古く、亀尾天王社あるいは天王社などとよばれていた。当社では江戸時代に天王祭が盛大に行われていた。この祭りは、京都の八坂神社の祇園祭や津島神社の天王祭と同様、疫病と厄難除けの天王信仰の夏祭りで、江戸時代の最盛期には、2台の車楽とよばれる山車と16台の見舞車とよばれる山車が曳きだされた。

境内
境内
狛犬
狛犬

mark名古屋市庁舎・愛知県庁舎(なごやしちょうしゃ・あいちけんちょうしゃ)
名古屋市庁舎
名古屋市庁舎(国重要文化財)
愛知県庁舎
愛知県庁舎(国重要文化財)

 名古屋市庁舎、愛知県庁舎ともに昭和天皇即位の記念事業として建てられたものである。名古屋市庁舎の外観設計は公募で選ばれたもので、一部修正して昭和6年(1931)に着工された。しかし、この年に満州事変が勃発したため、不測の事態に備えて高射砲が設置てきるように屋上の一部を補強したといわれている。

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