板垣退助

板垣退助先生誕生之地碑
 板垣退助先生誕生之地(撮影 2016.1.1)

 高知市大橋通電停から天神橋通商店街を南進し、信号のある2つ目の角を左折して20m、左手の高野寺(真言宗)の門の脇に「板垣退助先生誕生之地」の石碑がたつ。板垣は上土乾栄六の長子としてこの地に出生。吉田東洋こ抜擢されてしだいに頭角をあらわし、おもに藩の軍事面で実力をたくわえた。

高知城 板垣退助像
 高知城 板垣退助像(撮影 2016.1.1)

 慶応3年(1867)には薩摩の西郷隆盛らと討幕を密約。翌年の戊辰戦争に際しては、東征大総督有栖川宮熾仁親王の下で東山道先鋒総督府参謀、土佐藩迅衝大隊司令として従軍。甲府(現、山梨県)攻めの際に、乾家の遠祖である武田氏家臣板垣駿河守信形にちなんで板垣と改姓し、人心を収収攬。板垣の下に結集した甲斐の人びとは断金隊を結成して、以降、新政府軍に加わった。
 維新後は高知藩大参事に就任、明治4年(1871)の廃藩置県後は明治政府の参議となった。その後、征韓論争に敗れて、西郷・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らとともに参議を辞任。翌年1月民撰議院設立建白書を政府に提出し、高知に戻って立志社を設立、明治10年(1877)の西南戦争にも同調することなく、自由民権運動を指導・推進した。

岐阜公園 板垣退助像
岐阜公園 板垣退助像(撮影 2002.3.17)

 自由民権運動の全国的な展開をはかって大阪に愛国社を再興、これを発展させて自由党を結成し、総理となった。明治15年(1882)遊説先の岐阜で暴漠に刺された際にさけんだともいわれる「板垣死すとも自由は死せず」の名言も手伝って、その声望は全国にとどろいた。
 明治23年(1890)の国会開設後は立憲自由党を率い、明治31年(1898)には大隈重信と隈板内閣を組閣して内務大臣となったが、約4カ月で崩壊。その後政界を引退し、社会改良運動家として生涯をおえた。

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