松尾芭蕉

芭蕉記念館分館史跡展望庭園 芭蕉翁の像
芭蕉記念館分館史跡展望庭園 芭蕉翁の像(撮影 2001.4.8)

 伝統的な連歌から派生し、詠み捨ての座興であった「俳諧」が、独立した文芸として確立した江戸時代前期。俳諧師として身を立てるべく、ひとりの男が故郷の伊賀上野をあとにした。後世「俳聖」とうたわれた芭蕉である。寛永12年(1672)、江戸日本橋を拠点に俳諧活動に入った芭蕉は、句会の興行や選集の出版などの実績を積み重ね、江戸屈指の人気宗匠となる。
 しかし、江戸に下って9年目の延宝8年(1680)、芭蕉は突然、人影まばらな深川へ移住する。地位も名声も捨てた芭蕉は侘しい草庵を営み、純粋に芸術としての俳諧を追及しはじめる。ときに37歳。深川生活は思想的な転機ともなった。自然への回帰を説く『荘子』や、『本来無一物』を根本精神とする禅へ傾倒した芭蕉は、西行や能因など旅を重ねた歌人・文人たちへの思慕の念を強めていく。
 40歳を過ぎたころから、芭蕉は旅の生活を送りはじめる。『野ざらし紀行』『笈の小文』などの旅を重ね、新境地を開いていくなかで、ことのほか憧れていたのが奥州の地であった。畿内から遠く離れた陸奥は、異国的な憧憬から古来より多くの和歌に詠み込まれた。西行や能因も訪れた歌枕(和歌の名所)への思いを募らせた芭蕉は、元禄2年(1689)3月、門弟曾良をともない深川を発つ。

奥の細道矢立初の碑
奥の細道矢立初の碑(撮影 2002.8.24)

 元禄2年(1689)3月27日「千じゆと云所にて船をあがり」おくのはそ道の旅に出たことは著名なことである。古来南岸(南千住側)上陸か北岸上陸か論争のあるところであるが、ここではそれにふれず、とにかく千住を通って旅立ったことは確かなので、あえて「矢立初」の碑としたものである。

草加宿 芭蕉像
草加宿 芭蕉像(撮影 2007.4.29)

 草加宿は水運を盛んであった。江戸時代に綾瀬川を利用した舟運に使われていた札場河岸が、現在、公園として復元整備されている。園内には「おくのほそ道」旅立ち300年記念として建てられた松尾芭蕉や松岡子規句碑もみられ、春には花見の名所として知られている。

史跡 殺生石
史跡 殺生石(撮影 2006.11.4)

 芭蕉は、毒気いまだ滅びない殺生石を見て一句詠んだ。
  「石の香や 夏草赤く 露あつし
 この句は、「曾良日記」に記された。芭蕉は殺生石への途中、那須与一ゆかりの那須温泉神社に立ち寄っている。

中尊寺 芭蕉像
中尊寺 芭蕉像(撮影 2006.11.4)

 芭蕉像は、三百年あまり前に芭蕉が見た旧覆堂の手前に、右手で杖を握り、柔軟な顔立ちで立つ旅姿の芭蕉像とおくのほそ道句碑がある。芭蕉の義経主従に対する特別なものがあったに違いない。芭蕉は平泉に着くと、その足で高館に急いだ。高館の丘の上で芭蕉が目にしたものは、北上川の流れと束稲山の往時と変わらない景色と、一面の草野原だった。芭蕉は『おくのほそ道』の冒頭で、「すべてのものは激しく変化していく。それが人生の真の姿だ」とも述べている。
 「夏草や 兵どもが 夢の跡
 この高館から眺める北上川、束稲山や衣川古戦場の風情は、今も旅人の心を感傷的にさせ、時の経つのを忘れされてくれるだろう。

山寺 松尾芭蕉像
山寺 松尾芭蕉像(撮影 2008.8.9

 「閑さや 岩にしみ入 蝉の声
 芭蕉は山寺でどのような蝉の声を聴いたのだろうか。山寺の岩質は、火山灰や軽石を含む細かい礫からできている。まして、あちこちの岩には岩には穴が開いている。蝉が発した声は、多孔質の岩に吸収されたり、反射したりする。さらに多くの穴が音響効果を高める作用をする。蝉の声は、直接耳に届く際のうるささとは異なり、一種、心地よいハーモニーとなって芭蕉の耳に届いただろう。

日和山公園 松尾芭蕉像
日和山公園 松尾芭蕉像(撮影 2011.6.26)

 鶴岡よりも俳諧が盛んな酒田で芭蕉は、地元の人々から温かいもてなしを受け、句会を催した。酒田の浦役人の1人、寺島彦助宅の安種亭で句会が開かれた。ここでの発句が、
  「涼しさや海に入れたり最上川
である。この句はのちに推敲されて「暑き日を海にいれたり最上川」となる。
 いったん、象潟を訪れ、酒田に戻ってきた芭蕉と曾良は、翌日から渕庵不玉とともに三日間にわたり句会を催した。発句は、象潟への旅路を読み込んだ、
  「あつみ山や吹浦かけて夕涼み
である。

蚶満寺 松尾芭蕉像
蚶満寺 松尾芭蕉像(撮影 2011.6.25)

 元禄2年(1689)にこの地を訪れた芭蕉は、「松島は笑うが如く、象潟は憾むが如し、寂しさに悲しさを加えて、地勢魂をなやますに似たり」と記した。また、潟の畔に咲くネムの花が雨に濡れそぼった情景を、中国春秋時代の美女西施にたとえて「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいる。

伊勢へ旅立つ芭蕉と芭蕉を見送る木因の像
伊勢へ旅立つ芭蕉と芭蕉を見送る木因の像 (撮影 2007.5.12)

 大垣の門弟如行の家入った。名古屋の門弟越人をはじめ、親しい人々が次々に駆けつける。伊勢から曾良もやってきて、一同、あの世から生き返った者にでも会うかのように再会を喜び合った。ところが、到着からわずか2週間後の9月6日、芭蕉は伊勢神宮の遷宮式を拝むため、曾良とともに水門川から舟に乗り、大垣をあとにする。別れに際し、芭蕉は伊勢の「二見ケ浦」と、二見の名産である蛤の「蓋と身」をかけた次の句を詠んだ。
  「蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ
 おりから秋も去ろうとしている時節、人々との名残を惜しみつつ、芭蕉は次なる旅へ向かっていったのである。

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