甲斐が生んだ戦国時代不世出の英傑武田信玄公は、四隣を席捲した偉大なる軍略家・政治家であり、また多くの家臣団・民衆に愛慕された民政家でもあった。
武田信玄の菩提寺、乾徳山恵林寺(臨済宗)は、元徳2年(1330)、牧荘(現、塩山・牧丘方面)の領主二階堂貞藤が・夢窓疎石を開山にして創建した。五山・十刹につぐ諸山に列せられ、南北朝時代には多くの禅僧が、京・鎌倉より入寺し、東国の臨済禅の中心として発展した。
天正13年(1585)、徳川家康が甲斐国に入国し、多くの伽藍を再興した。四脚門は 総門と三門の間にあり、「赤門」ともいわれ、「乾徳山」の扁額が掲げられている。切妻造・檜皮葺きで慶長11年(1606)に再建された門である。
織田氏の焼き討ちで壮絶な火定を遂げた快川紹喜禅師は、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の遺偈が掲げられている。
開山堂は、夢窓疎石、快川紹喜、末宗瑞曷の三像が堂内に安置されている。
禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡である。
山水式の庭園で、西の端に勅使門がある。
夢窓疎石が創建当時作庭したと伝えられる。背後の乾徳山を借景にし、心字池に築山を配した池泉回遊式庭園となっている。
「恵林寺は、注戸幕府五代将軍徳川綱吉の側近で 甲府城主となった柳沢吉保の菩提寺でもあり、吉保の墓は、甲府市岩窪にある永慶寺から、享保9年(1724)恵林寺に改葬されている。
一番奥にある明王殿に安置されている武田不動尊坐像(撮影禁止)は、信玄が自分の姿を摸して制作させたものといわれ、信玄の毛髪を漆に混ぜて胸部に塗り込めたと伝えられる。」(※)