散歩コース
柴又駅(京成電鉄)~柴又帝釈天~矢切の渡し~柴又駅(京成電鉄) 「フーテンの寅」
寅さんは損ばかりしながら生きてる
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家庭思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
・・・・・・・
「見送るさくら銅」は平成29年(2017)3月25日、フーテンの寅像のそばに、妹・さくらの銅像が完成し建立された。
参道両側には、柴又名物の川魚料理(ウナギ・鯉・ドジョウなど)・草団子・おせんべい・くずもち、などのお店が立ち並ぶ。
「とらや」は、映画「男はつらいよ」の第1作から第4作まで、撮影に使用したお店。
高木屋老舗は、映画「男はつらいよ」の撮影の際、休憩や衣装替えされたお店。
二天門は、明治29年(1896)5月の建造で、安置する持国、増長の二天像は、縁起によれば藤原時代の仏工、定朝法橋の作という。泉州堺の妙国寺に安置されていたものを、当寺の二天門建立の記念に奉納されたものである。
「柴又帝釈天(経栄山題経寺)は、嘉永6年(1629)禅那院日忠上人によって開創された。当寺には古くから上人自刻の帝釈天王の影像に題目と両尊、四菩薩に病即消滅の文字と大士の花押を刻んだ板本尊が秘蔵されていたが、長いあいだ行方不明となっていた。時あたかも安永8年(1779)本堂再建のとき、棟木の上から板本尊を発見、ちょうどこの日が庚申の日だったので以来、毎庚申の日を縁日に定めたという。」(※)
「板本尊の発見から4年後、天明3年(1783)江戸で疫病が流行したが、たまたま日蓮上人減後500年忌にあたるので、感涙に咽んだときの住僧日敬は、自ら板本尊を背負って江戸の街々に出て、病に苦しむ多くの人びとを救ったという。
「瑞龍のマツ」は、幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びている。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びている。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようである。」(※)
彫刻の完成は昭和9年(1934)2月、石川信光、横谷光一など当代一流の彫刻家たち数名の手により15年の歳月を費したが、資材の蒐集には一通りの苦労ではなかったという。
原型彫刻は、彫刻ギャラリーに飾られている10枚の胴羽目彫刻の下絵にあたるものが掛けられている。
邃渓園は庭園の滝の風情が幽邃でもの静かであることによる。昭和40年(1965)、関東の高名な造園師、永井楽山翁によって完成された。
帝釈堂右側の祖師堂と釈迦堂は文政頃(19世紀前半)の建物である。
大鐘楼堂にかかる梵鐘は「黄鐘調」と呼ばれている。
「江戸川は葛飾区と千葉県との境界を流れる区内最大の河川だが、中世には「太日河」と呼ばれ、利根川の本流として東京湾に注いでいた。江戸川という名称に変わったのは、寛永17年(1640)上流で大変流工事が行われ、利根川の本流を現在のように銚子沖から太平洋に移されてからで、江戸へ物資を運ぶ通船がはげしくなると自然に江戸川と呼ばれるようになったという。」(※)
江戸時代、水戸街道の江戸川をはさんだ金町と松戸間には、関所が設けられたが、その下流に農民専用の渡しがあった。これが今日残る「矢切の渡し」である。伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台にもなり、また歌謡曲「矢切の渡し」の大ヒットにより一躍有名になり、都内唯一の手こぎの渡しとして親しまれている。
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