鎌倉宮は、明治2年(1869)明治天皇により、後醍醐天皇の皇子護良親王を祀るために建てられた。護良親王は僧となってその門室を大塔といったので大塔宮とよばれた。
拝殿の獅子頭守は、護良親王が戦の時に兜の中に獅子頭の小さなお守りを忍ばせて自らの無事を祈った事が由縁です。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画(元弘の変)に加わった皇子護良親王は、還俗して護良と改め、千早城(大阪府)の楠木正成と呼応して吉野城(奈良県吉野山)で鎌倉幕府の軍勢を悩ませ、幕府打倒に貢献した。
護良親王は、建武元年(1334)、「建武の新政」では征夷大将軍・兵部卿となったが、後醍醐天皇や初代将軍足利尊氏と対立を深め、捕らえられて、鎌倉に幽閉された。そして、建武2年(1335)に起きた中先代の乱(建武新政軍vs旧鎌倉幕府軍)で、北条時行(北条高時の次男)が鎌倉に乱入した際、鎌倉にいた足利直義(足利貞氏の三男)の命により、淵辺義博に殺された。
「村上義光公は護良親王の忠臣にして、元弘3年(1333)正月、吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき、自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。」(※)
御構廟は、淵辺義博が親王の首を捨てたという。鎌倉宮の東側の理智光寺跡そばに、護良親王墓が残っている。
現在、明治天皇御在所の一部は宝物殿になっている。
宝物殿は、護良親王馬上像、護良親王一代記、明治天皇下賜額など多数の宝物が陳列されている。
社務所の屋根を飛び廻る可愛らしいリスが見られた。
厄割り石は、盃に大きく息を吹きかけ石に投げて割り、厄(わるいもの)を祓う。
【河津桜 2月】
2月に入ると、鳥居手前の河津桜が咲き始める。
【紅葉 11月】
紅葉のグラデーションが綺麗であった。