ゆかりの地
高知市大橋通電停から天神橋通商店街を南進し、信号のある2つ目の角を左折して20m、左手の高野寺(真言宗)の門の脇に「板垣退助先生誕生之地」の石碑がたつ。板垣は上土乾栄六の長子としてこの地に出生。吉田東洋こ抜擢されてしだいに頭角をあらわし、おもに藩の軍事面で実力をたくわえた。
板垣退助は慶応3年(1867)には薩摩の西郷隆盛らと討幕を密約。翌年の戊辰戦争に際しては、東征大総督有栖川宮熾仁親王の下で東山道先鋒総督府参謀、土佐藩迅衝大隊司令として従軍。甲府(現、山梨県)攻めの際に、乾家の遠祖である武田氏家臣板垣駿河守信形にちなんで板垣と改 姓し、人心を収収攬。板垣の下に結集した甲斐の人びとは断金隊を結成して、以降、新政府軍に加わった。
この像は明治15年4月6日に自由党総理板垣退助が各地遊説の途中、岐阜公園に立ち寄り、演説をして帰るときに教員相原尚ふみに刺されたとき残した「板垣死すとも自由は死せず」という名言は今でも有名である。