園比屋武御獄石門は国王が出御の時、道中の安泰をこの石門前で祈願した。
守礼門は尚清王時代(1527~1555)に創建。扁額の「守禮之邦」とは、「琉球は礼節を重んじる国である」という意味である。
歓会門は首里城の正門。中国皇帝の使者"冊封使"など、訪れる人々への歓迎の意を込めて名前がつけられた。別名「あまへ御門」。
瑞泉とは、"立派なめでたい泉"という意味で、門の前にある湧き水「龍樋」にちなんで名付けられた。別名「ひかわ御門」。
漏刻門は櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。別名「かご居せ御門」。身分の高い役人も国王に敬意を表してここで篭を降りた。
「御庭」へ続く最後の門。3つの入口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門でした。別名「君誇御門」。
首里城の創建は14世紀頃と言われていますが、詳しいことは分かっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。
書院・鎖之間は正殿につぐ大規模な木造復元を行った建物であり、建物は、南殿の二階部分と同じ高さの地盤の上にあり、南殿と渡り廊下でつながっている。鎖之間は王子などの控え所であり、また諸役の者達を招き懇談する、御鎖之間(おさすのま)と言われる広間がある建物である。現在、鎖之間においては、往時の賓客がおもてなしを受けたように、琉球菓子で接待を体験できる施設として御利用になれる。
「首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたされ、漆器、染織物、陶器、音器など、琉球独自の文化が花開いた。1945年の沖縄戦灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元された。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものである。」(※)