散歩コース
日比谷駅(地下鉄日比谷線)~憲政記念館~日枝神社~赤坂見附駅(地下鉄銀座線) 法務省旧本館(赤れんが棟)は、米沢藩上杉家上屋敷の跡地に、ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計によって、7年余りの歳月を費やして明治28年(1895)12月、司法省庁舎として竣工された。
国会議事堂は、広島藩浅野家中屋敷大正8年(1919)に行なわれた新議事堂設計図の懸賞公募で、一等に当選した渡辺福三の作品をもとに、大蔵省管財局が本設計された。
わが国の国会開設80周年記念事業として、昭和47年(1972)に設立された。ここには内外の議会政治関係資料が収集され、一般に公開されている。
「尾崎行雄は安政5年(1858)11月20日に津久井又野村(現、相模原市)に生まれる。上京後は平田塾で国学を学び、後、慶應義塾で洋学を修め、なお工部省工学部で学んだ。文筆生活に入り、藩閥政治の打破と自由民権のために尽くす事を志した。衆議院議員に選出された。以来当選25回、在職63年間、明治・大正・昭和の三代に亘って藩閥官僚とたたかい、軍部の反動の嵐の中で幾多の辛酢をなめながら憲政の発展に身魂を捧げられた。」(※)
記念館内に昭和35年(1960)設立された尾崎メモリアルホールは、第1帝国議会から63年にわたって衆議院に議席をもち、憲政の擁護と発展に尽力し、95歳で浸した尾崎行雄を顕彰記念したものです。
明治20年(1887)、保安条例によって東京退去を命ぜられた尾崎は、翌年、友人らの助力で旅行費用を集め、約2年間、欧米諸国を訪れた。また、旅行中に書いた見聞記は、現地から朝野新聞に送られ、読者の評判を呼んだ。
1階中央ホールの企画展示「書に映る総理の心 色紙展 第85~97代」では、日本国憲法下の歴代内閣総理大臣、森喜朗総理大臣(第85代)から現在の安倍晋三総理大臣(第97代)まで8名の方の色紙が展示されている。
内閣総理大臣の演説する映像を議席に座って見ることができる。
木札は本会議場による記名投票の際、賛成する議員は白い木札(色票)を、反対する議員は緑色の木札(青票)を投じる。
新聞記者席手摺の前面にほどこされている。「士農工商」といった江戸時代の国民の階級制度を象徴したもので、士は盾、農は稲、工は機械、商は商業のシンボル「マーキュリー」を描いている。
表示板は昭和63年(1988)3月まで衆議院玄関で使われていた。党員表示板は、議事堂本館や分館の入り口に設置され、議員は自分の名札を「赤地」から「黒地」にかえして登院したことを示した。
門標は、現議事堂が竣工した昭和11年(1936)11月から昭和44年(1969)に国会外構が改修されるまで揚げられていたものです。
速記符号は、高速化する話し言葉に対応するため、限られた長さの直線、曲線、円や点を駆使し、書き取る線量を極力減らすなどの改良がなされている。
親時計は、現議事堂を建築した際、衆議院と貴族院にそれぞれ親子時計が取り付けられた。この時計は、衆議院の各室に設置された150余の子時計と連動しており、昭和60年(1985)10月まで使用されていた。
錦絵は、議会開設前の作品で、新しく建てられる議事堂を想像して絵が描かれたものです。
昭和7年(1932)5月15日に起こった五・一五事件、海軍中尉三上卓ら陸海軍将校に襲われ、総理犬養毅が暗殺された。
立体ビジョンコーナーは、帝国議会第1次仮議事堂に初登院する議員たちのありさまや、はじめての議会での出来事を立体映像で見ることができる。
日本水準原点標庫は、日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築された。
憲政記念館は、江戸時代の大老職を務めた彦根藩十三代藩主井伊直弼の彦根藩井伊家上屋敷があった場所である。江戸の名所「櫻の井戸」は名水井戸として知られ、上屋敷の表門外西側にあったが、加藤清正が掘ったと伝えられている。安政7年(1860)3月3日、井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中に暗殺された。(桜田門外の変)
時計塔は、当時の建築法の限界31.5mの高さになった、3面の文字盤は「三権の分立」を表している。
永田町の名前が正式に生まれたのは明治5年(1872)のことである。江戸時代、このあたりは一帯は武家地で、馬場のあった道筋に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれていたことが、この町名の由来になっている。
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