全国的に秋晴れの天気となった土曜日の朝、JR八王子駅で横浜線から中央線に乗換える。車内は観光客と高尾山などのハイキングに出かける人達で込み合っていた。
相模湖駅から相模湖公園の中を通り嵐山の登り口へ向って歩いた。途中、相模湖大橋の上からは、湖岸にロープを繋ぎ釣りを楽しむ舟の数々見られた。
相模川の水を有効活用するため、昭和13年(1938)から始められた相模川河水統制事業は昭和22年(1947)の相模ダムの完成により終結したが、この事業に従事した労務者の宿舎があった場所が、後にこの相模湖公園の敷地となった。
相模湖は相模川をせきとめた相模ダムにより出現した人造湖で、面積は3.26k㎡あり、これは横浜スタジアムが40個すっぽり入る大きさだ。末端部は、ダムから10km上流の山梨県上野原市に達している。又、神奈川県の重要な水源地であるほか、四季を通じて行楽や釣りに、賑わいを見せている。
相模湖大橋で左折し相模発電所を少し越えた辺りに嵐山の登り口があった。いきなりの急な山道だったので、ゆっくりペースで登り始める。暗い山道であったが、途中林の中から相模湖が望める場所があり一服。嵐山の頂上(406m)までは約30分の登りであった。
私が頂上で写真を撮っていると、二人の娘さんが元気よく登って来た。地元の方で親子3人さんの記念写真を、相模湖をバックに撮らさせていただきました。(どうも有難うございました)
嵐山は津久井郡相模湖町、相模湖駅から南東1kmにある標高406mの小さな山だが、山頂には戦国時代の烽火(のろし)をあげた跡などがあり、古い言い伝えを残している。また、ここからの相模湖や小仏(こぼとけ)山地を望む風景は素晴らしく、京都の嵐山に似た風光からこの名がついたという。
ここからさがみ湖リゾート プレジャーフォレストの横を通り抜けて国道412号へ出る山道を下った。アップダウン、崩れかけた箇所もあり、あまり整備されていない山道であった。
途中、中高年の方々30名ほどの団体さんに出合う。最後尾の人(近畿ツーリスト)に聞いてみたら、「嵐山から石老山へ」ハイキングツアーで、「この後、石老山へも登ります」と言われていた。
正覚寺は津久井郡相模湖町若柳の正覚寺。西行法師の歌や有名無名の句碑が境内に沢山建てられており、愛称「俳句寺」と呼ばれているお寺です。神奈川の名木100選にも選ばれた推定樹齢300年の五色椿と散り椿も有名です。
本堂裏の山道は十八羅漢像巡りのコースがあり、4月下旬には山の斜面に白いツツジが咲き、「滝ツツジ」と呼ばれている名所でもある。
ここから帝京大学前を通ると、道路右側沿いに首洗い池(武田信玄ゆかり)、寸沢嵐石器時代遺跡がある。
縄文時代後期初めの敷石住居跡。5.2mX45mのほぼ円形の範囲に、直形30cm前後の河原石を平らに敷きならべ、その隙間には小石を槙充しており、また中央に自然石を組み合わせた炉址をもっていた。土器片のほかに、打製石斧、石七、石鏃、石皿等が出土している。
館内に入り見学の為に住所と名前を記帳した。(ただ、数日間は誰も訪れていない様子)
管理人さんには、暗くなっていた資料室に電灯をつけてくれたり、「津久井町の観光ガイドマップ」などを頂いたりして、随分と歓迎をして貰らいました。
「尾崎行雄は安政5年(1858)11月20日に津久井又野村(現、相模原市)に生まれる。上京後は平田塾で国学を学び、後、慶応義塾で洋学を修め、なお工部省工学部で学んだ。文筆生活に入り、藩閥政治の打破と自由民権のために尽くす事を志した。」(※)
尾崎咢堂記念館から津久井町総合運動公園へは約10分の距離であった。
広い自然公園の中にジョギング、散歩コースがあり、テニスコートや多目的グランドなど恵まれたスポーツ施設が整備されている。
4面あるテニスコートではテニスを楽しむ人達の笑い声で溢れ、一方野球場では大人の厳しい指導を受けながら、子供達が熱心に野球の練習をしていた。